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 投稿・記事・取材
   日本の文化“お正月体験会” 国際交流グループ 肥後 照雄
2017年1月15日(日)外国人留学生・研究者へ の日本の文化『お正月体験会』が開催された。放 送大学・神奈川学習センター(横浜・弘明寺)に 隣接する横浜国立大学学生寮・大岡インターナ ショナルレジデンス(以下、大岡IR)には、約 170名の留学生と、5名の外国人研究者とその家族 らが居住している。 日本の正月文化は、家・家族単位が基本で、留 学生たちが肌で体験する機会は少ない。そこで、 2017年の新年を迎えるに際し、大岡IR内で日本の お正月に家庭で食される御節料理やお雑煮などを 調理し試食して貰う機会を作る「体験会」が企画 された。大岡IRと神奈川学習センター池田所長お よび国際交流グループの共催による『交流パーテ イー』には、大岡IRの関係者計70名と放送大関係 者12名が参加。同時に、留学生に日本文化である お茶席(神奈川学習センター同窓会茶道部の協力 による。写真参照)とカルタも体験してもらっ た。本企画の意図は、“大岡IR 居住者間の交流、大岡IRと放送 大学神奈川学習センターの利用 者間の交流、日本と他国の文化 の“共有・共感・共生”であっ た。多くの人が参加して大盛 会、かつ大いに喜んでもらえた ことから素晴らしい企画であっ
たことが証明された。 多くの留学生は、折角日本に来ても、表面だけ 見たり触ったりしただけで帰ってしまう。本当に 勿体無いし、不思議な国だという印象で終わりか ねない。本企画のように多少お金と手間はかかる が、産官学の受け入れシステムやホスト・ファミ リーなどの組織・体制づくりの必要性を感じた。 その意味でも、本「体験会」は、3年後の東京オ リンピック・パラリンピックに来日する外国人へ の「おもてなし」にも参考となる、画期的な企画 だったというのが私の率直な感想である。

放送大学 OUJ神奈川学習センター 『第71号 なつだより』2017/07/21発行
   「行った所、思い出の場所」 ~アルゼンチン・パラグアイ、 最悪のコリエンテス・最高のアスンシオン~

映画や小説ではよく出てくる、‟今日は人生最悪の日だ!„というセリフ。まさか、自分に振りかかってくるとは夢にも思いませんでした。2011 年 2 月、南米最後の処女地・パラグアイ(以下、パ国)訪問。期待は大きく膨らみ、愉しい思い出になるはずでした。アルゼンチン(以下、ア国)コルドバからのコリエンテス訪問は一生忘れることのない最悪の思い出として鮮明に蘇ります。(図 1)

1)訪問最大の楽しみは、コリエンテスでのカーニバル観覧でした。しかし、当地 JICA・シニアボラン
ティアが、去年の開催日を連絡、実際は一週間後の開催だった訳で、「夢のカーニバル」となったこと。
当地のカーニバルは有名なブラジル・リオのカーニバルと同様のスタイルで繰り広げられるという事で
本当に楽しみにしていました。
2)ア国コルドバ発深夜バスの到着は、終着駅・コリエンテスではなく
勘違いで一つ手前のエステンシア駅で降りてしまい、タクシーで当市まで行く羽目になったこと。
3)その為、出迎えの知人と会えなかったこと。
4)最初で最後のチャレンジとなるはずだった怪魚ドラード(体長 1m以上、または体重 10kgを超える
淡水巨大魚)釣りが、釣り場の船に乗る目前、突然の豪雨に遭い中止になったこと。怪魚ハンター(写真
2)によると、‟大きい魚は体を維持するために貪欲。だからエサを投げ込めば食いついて来る。誰にでも
釣れる„が幻と消えたこと。
5)パ国への入国時、荷物のレントゲン検査があり、ア国人親友から貰った「ガウチョナイフ」を没収されたこと。
6)ア国の出国スタンプは貰ったが、パ国への入国スタンプを忘れたこと。これにより、パ国出国時 USD50取られたこと。 国境の通関事務所では一切アナウンス、注意書きなどなかった。
等々、未だかってない、生れて始めてのドジ、失敗、不注意、アンラッキー、悪夢のオンパレード。

コリエンテスは、コルドバより北東約 900km、深夜バスで 12 時間、(以前、航空便が運航していた
が廃止となり、現在はバス便のみ。バス代約 7 千円)の所にあります。中南米では、日本のように鉄道、
地下鉄など発達していないので、バスでの移動が主流。バスターミナルはブエノスで約 200、コルドバで
も 100、スペイン語だけのアナウンスなので発着には注意が必要です。バスは 2 階建て、トイレ付、リク
ライニングチェアー(ほぼフラット)など完備。また、路線、時間によってはデイナー・ワイン付きのバスもあります。

一方、最高の想い出は、昨年 9 月、JICA「日系社会連携調査団」13 社の一団員として仕事でパ国アス
ンシオン再訪した時。当該製品・テクノロジーを日系・現地企業にセミナーでの紹介(写真4)や商談会
での売り込みを拙いスペイン語で行いました。

今回の再訪は、今までの海外出張、旅行ではしたことない夢のような経験・体験でした。
1)茅ヶ崎駅からハイヤーで成田空港出発ターミナルまで行ったこと。2)飛行機は、久々の「ビジネスクラス」、しかし、ファーストクラス席はない航空機だったので実質ファーストクラスと同じ待遇だったこと。 日本では日頃あまり飲む機会がない「シャンペン」を浴びる程飲んだこと。
3)成田、ニューヨーク、サンパウロ、ブエノスアイレス、アトランタ、すべての空港で「VIP ラウンジ」を利用できたこと。そこでシャワーを浴び、時差ボケはほとんど感じなかったこと。
4)パ国の豊な文化・歴史・自然に触れられたこと。人口は約 700 万人。南米では下から二番目の貧乏国 ながら、 資源は豊富、南米のほぼ中心に位置し、立地条件が良い等今後の発展が楽しみな国。90% 以上が、日本人と同じ モンゴロイド系であるグアラニー人などのインディヘナの血が強い、ス ペイン人との間の混血(メスティーソ)。 原住民;グアラニー族、公用語、通貨の呼称、習慣、音楽、 料理など現在でも日常生活に深く根ついています。 スペイン語、グアラニー語が公用語であり、94% の国民はグアラニー語を話すことができ、スペイン語も 75%の国民によって話されています。 また、大きなショッピングセンターでは、グアラニー(パ)、ペソ(亜)、 レアル(伯)、ドル(米) 、 円などほとんどの通貨が使用でき、日本より進んでいるグローバルマーケット。 5)ホテルでは生演奏が楽しめたこと。「 グアラニア」と呼ばれるアルパを使ったフォルクロー レ。 他のラテン音楽に良くあるようなアフリカ的な要素は余り感じられない。哀愁を帯びた曲 調が特徴的。 6)コルドバでは、日本料理店・食材店もないが、アスンシオン・内山田ホテルでは、毎朝、豪華な和食 付き。 ア国では日本料理を食べるにはブエノスの高級日本料理店に行くしかない。だが、当市には多くの
日本食レストラン、中華・韓国料理店あり、沢山の日本・韓国の食材販売店などあり、物価は安く、治安 もよく、 日本人には住みやすい印象。

振り返ってみると、初めてのパ国訪問は、私の海外赴任・出張・旅行(約 100 ヶ国、426 都市訪問済)
の記念すべき記録・歴史の一ページとなりました。1973 年 2 月、中南米の地に初めて足を踏み入れ、44
年間を経て主要中南米諸国の全て制覇した足跡となったからです。そして、今回の再訪で、日本 99 回目、 パ国 3 回目、ア国 19 回目の出入国となりました。10 年来、経営指導・支援しているア国中小企業 K 社 創立 50 周年、副社長 50 歳誕生日、結婚 25 周年と節目の記念日となる今年(2017 年)12 月初旬に、 社長夫妻招待によりア国 20 回目再訪を予約済み。中南米とは「浅からぬ因縁」を感じています。
(完) 2017/03/13 放友会投稿文
   Japan’s seniors find ‘second life’ abroad

 TOKYO, July 21, (AFP): After a life of dedication to a corporate cause that in Japan means long hours and few holidays, retirement might be seen as a well deserved rest. But for some, it is a chance to launch a new career. With opportunities at home few and far between, a scheme offering Japan’s seniors the chance to work abroad is increasingly being seen as a good way to keep active during a retirement that can easily last 20 years. As Toshio Hirouchi approached 60, he began to wonder what life would hold for him when he left IT services giant Fujitsu, where he had been working for more than three decades. He had joined the company in 1973, programming the large-size all-purpose computers that made up the bulk of the industry at the time. “But with the emergence of personal computers, the company wanted younger engineers for PC development. Our generation was forced out from development to administrative branches,” he said. “That change helped me to think about doing something completely new” after retirement, the 66-year-old told AFP. The answer came in the governmentrun Japan International Cooperation
Agency (JICA), a scheme that recruits volunteers between the ages of 40 and 69 to work abroad. Contribute The programme sees up to 470 people sent to more than 60 different countries in Asia, Latin America, Africa and the Middle East every year, where they are tasked with “accelerating cross-border friendship and understanding”, according to the organisation’s website. They are also there to “contribute to the economic and social development” of recipient countries, doing work required by their host communities. In Hirouchi’s case, this meant editing a history book for newly-arrived Japanese immigrants to Paraguay. So at the age of 58, he hit the books, brushing up his rusty English and learning Spanish from scratch. Interviewing, writing and negotiating with a printing company were all new to him, but Hirouchi relished the challenge. “I discovered that volunteer work is a world where your will and enthusiasm can carve out a new dimension,” he said. Hirouchi is one of Japan’s post-war baby boom generation that helped engineer the economic miracle of the 1960s
and 1970s, catapulting the country into the top ranks of world economies. As Japan developed, the birth rate fell and now stands well below replacement level. Currently those aged 65 or over account for more than 23 percent of Japan’s 127 million people — one of the highest proportions of elderly in the world. That figure is expected to rise to 40 percent by 2060, as Japan’s population shrinks, further stressing public finances already hard pressed by two decades of economic stagnation. Security And by 2060, the average man will live to be 84; the average woman to nearly 91, government estimates suggest. More — and longer living — retirees inevitably means more spending on social security at a time when Japan’s public debt stands at around twice GDP. Agovernment report last month said Japan needed to harness the skills of its greying workers, warning the nation’s economic prospects depend on making them productive. Japan “needs to realise a society where ageing people can participate in the labour market or in social activities”
to boost economic growth, the cabinet office said in a white paper. The paper said many older people were keen to remain economically active. But it added: “That strong desire among ageing people is not resulting in actual job opportunities”. Tetsuo Kawauchi, chief researcher at Japan Organisation for Employment of the Elderly, Persons with Disabilities and Job Seekers (JEED), said JICAas it presently works is useful only to a certain sector of retirees. “People who apply to JICA volunteering are in a relatively good situation as they hold some kind of skills and sizable corporate pension benefits from their former employers, which are often big firms,” he said. “They are seeking a motivation in life rather than income.” Challenge But the challenge for JICA, and for Japan at large, he said, is to find a way to make the benefits of working into twilight years available to everybody. “A large number of retirees in their 60s want to keep working because of economic reasons — worries over costs of caring for their parents, their own medical costs, and declining amounts of
pension benefits,” he said. In the meantime, talented seniors like Teruo Higo, former Sony production control expert have found a use for their skills — and a way to keep active and interested. Higo quit Sony at 58 to set up his own company advising small businesses how to improve productivity because he resented the idea of being forced to retire. Over the following decade he twice went with JICAto Argentina — in 2002 and 2009, each time completing a twoyear term. “For retirees, there is no better place than this volunteer scheme in terms of working conditions and compensation,” 72-year-old Higo said. But he added that with the scheme not open to those older than 69, more options are needed. “There are literally no jobs for people in their 70s and 80s,” he said. In Latin America, volunteers receive a monthly pay packet of $1,000 for living costs in addition to dwelling expenses and flight tickets. “But for retirees, what’s more important than money is to have a job with some responsibility, that could also prevent dementia and save elderly people’s medical costs,” said Higo.
    中国でのカラオケ」 2016/04/08

 『白樺、青空、南風・・・・・』と

‟北国の春“の中国語と日本語の大合唱が大連飯店(ホテル)の客室に鳴り響いた。1983102日~8日、当社の小型テープレコーダーに関する“日中技術交流会”のメンバーの一人として、中国・遼寧省大連市に出張、打ち上げ会でのひとこまであった。交流会の団長は、当時のゼネラル・オーデイオ事業部長(のち副社長)、団員は同事業部設計課長2名、海外事業本部アジア課長他2名とキット課私の計6名であった。

大連へは、首都北京から東へ空路で約2時間、蒸気機関車(D1ーデコイチ)では17時間かかった。往路はよく墜ちるので有名な中国の国内線を利用した。先進国のどこかで散々使い古したDC-3の薄暗い機内で、まず、エアーコンの白い煙がもうもうと舞うのを、次に、スチユワデスが‘蠅タタキ’で、飲み物を飲んでいようが、本や雑誌を読んでいようが、ところ構わず蠅を撃ち落としているのを目の当たりにして一行は無事大連に着けるか不安になった。しかし、幸い何事もなく目的地に到着したときはさすがに全員胸を撫で下ろした。復路は蒸気機関車で帰ったが、乗る前にひと悶着あった。つまり、我々外国人を何番線から搭乗させるか、なかなかまとまらず30分ほど駅前の屋外で待たされた。

10月とはいえ大連は緯度的には札幌とほぼ同じで、立っている地面から冷気が沸き上がり、まるで冷蔵庫の中にいる感じだった。その精だろう、団長は風邪を引き北京までずっーと寝て帰る羽目になった。その大連と日本との関係は古く、深く、大連駅は日本の上野駅を真似て作られており、以前日本人が建てて住んでいた家々がまだ随所に沢山残っていた。 我々が大連に行くに当り、わざわざ北京の電子工業局の副局長が同行、大連市長や遼寧省の電子工業局長も交流会に参加する等など異例で、現地の並々ならぬ熱意と我々に寄せる期待の大きさを示していた。

生まれて初めての訪中の感想と言えば、何よりも大地の広大さであり、中国4000年を越える悠々たる歴史の流れを肌で感じたことであった。昔から聞いたり読んだりした中国と実際に見たり接した中国とは異なる落差の大きさだった。交流会は事業部長自ら出張、直接説明された事もあり大成功であった。徹夜での資料作成、また、手を洗う所がないトイレの工場、ぬかるみの道路、常時お湯が出ない、暖房の調整が出来ない宿等交通・建物の不備・老朽の為、不便かつ厳しい出張だった。『日本の果実の種を、中国の土に蒔けば同じ甘い実が取れる』式の中国の発想や動機の所為か、残念ながら、当社との技術提携、現地ノックダウンには結局、進展・発展しなかった。中国とのビジネス遂行の難しさを知る上でも貴重な中国出張であった。

他方、“友好第一”の気持ちは、充分体験・実感したのが冒頭のカラオケであった。難しい仕事が一段落し、明日帰国するという状況が、双方リラックスし、大いに盛り上がった。今でもテレビやラジオそしてカラオケなどで‟北国の春“を聞くたびに、中国の厳しい状況下での滞在、仕事や楽しかった日中の合唱・競演を思い出さずにはおれないのである。 了    

   「私の故郷~台湾~」2016/04/04

 2月、放送大学・中国語学習会の「中国語研修台湾旅行(デラックス台湾1周スペシャル4日間)」に参加した。理由は、初めて台湾の東海岸を訪れるのが楽しみだったことと、なによりも、私が生まれ7歳まで過ごした『第2の故郷』が台湾であることだった。今回が20年振りの訪台となった。台湾の地に第一歩を印した時、S社現役時代、日本に帰国後初めて里帰りした想い出が走馬灯のように浮かんだ。         

『ヒゴさん、ところでお生まれはどちらですか?』『ここ台北市ですよ!』『本当ですか、台北市の何処ですか?』『建成町ですが・・・』『えっ、まさか、ここからすぐですよ、行ってみましょう!』『確か、駅があってすぐ前に消防署があったはずですが・・・』 『あっ、あそこですよ!』

 このようなやりとりがあったのは、19842月、S社台湾代理店コンベンションに参加した時だった。台北市内の販売店を回り、当社製品や競合他社の売れ行き状況や最新情報を入手する為、現地セールスマンが自ら車を運転して“デーラーコール(販売店訪問)”をしていた時の事であった。彼は、年配の台湾人で日本語を流暢に話した。

 消防署の位置は、駅の前ではなく少し斜めに移動していたが、まさに言ったとおりに“火の見やぐら”と“半鐘塔”も昔の記憶通りに残存していた。あたりはすっかり賑やかな駅前通りに変わり、地価も市内の中で最も高い地域のひとつになったとも教えてくれた。

親日的なセールスマンは、次に以前住んでいた“鉄道員宿舎”にも連れて行ってくれた。 私が生まれ幼少時代を過ごした思い出の長屋式宿舎は、さすがに古びて朽ち果て、人が住んでいる気配はなかったが、昔のままに残っていた。付近でよく遊んだ空き地や道路から、台湾人と日本人の子供達の歓声や叫び声が、今にも聞えてきそうだった。正直言って、感動と感激で涙が出た。ただ、日本敗戦の報を知ると、一緒に遊んでいた台湾人の子供に、突然、思いきり頬を殴られた苦いシーンも、何故かふと思い出した。殴られたぐらいで済んでよかった。今まで威張り君臨していた日本人への仕返しだったのだろう。私にとっては、懐かしく、ほろ苦さもある、44年振りの“センチメンタル・ジャニー(里帰り)”だった。
 
放送大学 台湾研修旅行に同行して (2016 年2月 22日~25日)

昨年11月、国際交流グループ(KKG)主催セミナー後の懇親会で、中国語学習会のメンバーから訪台の計画を聞き、参加を決めた。というのは、台湾は私にとっては第2の故郷、生まれ育ったところで、約20年振りの里帰りとなるからである。

同行するメンバーは8名。初めて利用するエバー航空で羽田空港を10:45離陸。今回、特別料金の為、残念 ながらANAなどのスターアライアンスによるマイレージ加算されなかった。が、懸案のエコノミークラスでのフリードリンクは適用。機内のランチ、シーフドと赤ワイン(しっかりとお代わり)とかねてより観たかった新作映画「007 スペクター」を鑑賞、3時間余の空の旅を満喫。

台湾との時差は1時間。台北(松山)13時到着。天気は曇り、約18℃と思ったより寒くない。早速九份観光。当地は松山から約40㎞、バスで1時間。 曇りで遠方の海、山々、木々はよく見えないが、晴れていたら、さぞ、壮大で絶景と思われる。切り立った丘陵に大小の人家、店、食堂などがひしめいている。もし、大きな地震が来たらと想像すると怖い感じ。山頂のお寺には急な坂道を登らなければならない。途中、赤ちょうちんが特徴的な九份の風景を見ることができた。

田中真澄先生への礼状 ~講演参加申し込み礼状への返信~  (2014/10/05

拝啓 田中 真澄様

初めてお便り申し上げます。実は、先生の講演受講歴は最初22年前(1993/11/18)、第2回目23年前(1994/03/13)、第3回目は17年前(1998/05/16)です。その時頂いた名刺は“家宝”として保持中です。講演で聞いた、“人生90歳時代の到来、生涯現役を目指すなら自立・独立、起業しなさい”というお言葉の通り、1998年5月有限会社設立。現在迄17年間事業継続し、少額ながら法人税も納税しています。

前職のソニー㈱に34年間お世話になりました。主な業務は、海外協力工場でソニー製品を現地生産するための支援・指導でした。当時、開発途上国に約40工場ありました。工場の生産性向上、品質改善、新工場立ち上げ、新製品導入など「御用聞き」として世界の中小企業を巡回しました。つまり、国内外の「ものつくり」に関連する仕事に一貫して携わっております。

 そして、58歳で早期退職。以来、国際協力機構(JICA),日本生産性本部(JPC)からの委託事業で、東欧・中欧、アフリカ、中南米などで海外ビジネス・コンサルタントとして赴任、出張しました。結果、今まで五大大陸渡航済み、世界約100ヶ国、400都市を訪問済み。海外2,000社、国内200社の中小企業を診断、「開発途上国・中小企業」専門家として現役を続行しています。講演受講後、人生が大きく変わりました。

また、2011年9月、2年間滞在したアルゼンチン勤務より帰国。過去の経験・ノウハウだけでは今後生き残れない。さらに、著名・高名な教授や先生から近代的、体系的、倫理的に学びたいと72歳にして「放送大学」に入学。多くの人達に“何をいまさら”“いい歳をして”などと言われました。2015年3月、エキスパートコース「経営の理解」認証状取得済み。現在、同コース「ものづくりMOT(技術経営)を学ぶ」を履修中です。その後、人脈からの紹介で埼玉県と神奈川県2大学での非常勤講師就任。大学での授業、テキスト、教材などにも有効に流用、活用し今までの自己投資の一部を回収しています。

75歳の今も、神奈川県淵野辺の中小企業海外ビジネス・アドバイザーとして平均週1~2回出勤。ミャンマー・ホンコンに数回出張後、無事進出に成功しました。今、新たにタイ、インド、ベトナム進出を模索・検討中です。成功の秘訣は、現地企業・社長との信頼性・人脈構築、これも講演・本から学んだ哲学です。

“今あるのは誰のおかげ?”と問われると、私は躊躇なく『田中真澄先生』と答えます。22年前の講演で、“生涯現役、起業”という言葉をもし聞いていなければ、大方の日本人と同様にごく一般的な普通の人生を送っていたと思います。週一回のテニス、毎日のウオーキングで幸い健康にも恵まれて元気です。

私にとって第4回目の講演:11月14日(土)『100歳まで働く時代がやってきた』で新たな老後・人生の幸せを見つけたいと期待しています。そして17年振りにご尊顔を拝するのを心より楽しみにしています。

敬具

アルゼンチン ~JICA派遣・配属先から表彰への答辞~  (2014/09/04

私がアルゼンチンに最初の1歩を踏んだのは、ソニー時代の今から37年前の1977年2月でした。以来、当地への入出国は今回を入れて18回目となりました。アルゼンチンは『私の第2の故郷』です。このように当国とは長い深い付き合いをしております。最も印象深いのは、2002年4月、ロサリオに赴任、2003年5月、胆石手術をしました。その時、INTIのラウル・カスタニョさんとスタッフには本当に親身なって面倒を見てもらいました。2006年には、同じくロサリオのKRETZのダニエル夫妻と付き合いができ、今日もわざわざロサリオより参加してくれています。その他、INTI本部のマルコスさん、サルタのシャチョウさん、コルドバのエルバさん、ネウケンのアドリアンさんなどいろいろな素晴らしい人達と出会いました。

当国では、仕事とプライベートを楽しくやってきました。本日、大変な栄誉と名誉ある表彰をして頂き、当国での素晴らしい記念すべき日となりました。これもひとえにアルゼンチンのJICA、 INTI、中小企業のお蔭と心より感謝しております。「よい種をまけばよい実がなる。最善を尽くせば必ず報われる」という言葉があります。INTIがこれからも良い種を育て続けて欲しいと念じて私の挨拶とさせて頂きます。本当にありがとうございました
                         
アルゼンチン訪問記 ~JICA SV・OB会 会報124号掲載~  (2014/09/02~14

9月初旬から2週間、アルゼンチン・パラグアイを訪問してきました。往路がトロント、カナダ、サンチアゴ、チリ経由ブエノスアイレスの約30時間余。復路、ロサリオ、アスンシオン、パラグアイ、パナマ、ヒューストン、アメリカと6ヶ国を経由、駆け足での強行日程でした。特に、ロサリオからアスンシオンまで高速深夜バスで17時間など、バスでの移動も多く心底疲れました。しかし、以前滞在した各地で大歓迎・歓待を受け、苦労して行った甲斐がありました。なお、今回の出張は3年振り18回目のアルゼンチン訪問、通算94回目の日本入出国となりました。

訪問の第1目的は、第三国研修(中南米12ケ国対象)『中小企業における経営・生産管理技術の応用』の企業経営の理論・マーケティングについて講演をすること。 

第2目的は、JICA派遣配属先・国立工業技術院(INTI)より表彰を受けることでした。受賞の理由は、『永年にわたるINTIスタッフへの教育と中小企業への経営・技術指導への貢献』との理由です。本表彰はS社現役時代を含め、一貫して開発途上国での人材育成、国際協力分野で働いてきた私のおおきな喜びであり、ささやかな誇りでもあります。SV OB定例会・イベントなどへの日頃の疎遠を謝し、高齢にもかかわらず?元気で活動している近況報告を兼ねご報告する次第です。完

私の抱負・人生に定年なし ~これからの日本を支えるのは、シニア層~2014/07/30

 ご存知のとおり、日本は、少子高齢化、人口減少、生産年齢人口の減少が加速しています。対処法のひとつである、「少子化対策の実行」は、晩婚化や高い教育費など課題が多く、当面間に合いません。次に、「移民による人口増」がありますが、治安や文化・環境の違いによる社会的な軋轢が大きく実現は簡単ではありません。 最も有効、即、実行できることは、既存の「シニア人材」をより生かし、生産性を上げていくしかないのです。

 平成26年6月、中小企業庁は、高齢化社会を迎え、シニア人材が年々増加する環境の中、中小・小規模企業への「シニア人材」を派遣する事業をスタートさせました。これらの中小企業では、日々直面する経営課題に対し、内部人材を迅速に投入し解決することは容易ではありません。

 その一方、企業で長年培ってきた知識や経験、ノウハウを、中小企業に役立てたいと考えるシニア人材は多く存在します。本事業では、こうした「シニア人材」を募集して、中小企業とのマッチングを行います。企業には「経営力強化」や「業績拡大」、シニア人材にとっては「キャリアの充実」や「やりがいの獲得」というメリットがあり、双方の活性化が地域全体の成長へと繋がることを目指しています。

 先日、本事業に関する講演・説明会が東京・竹橋で開催され、私も参加しました。予約制で集まったのは約200名。みなさん、寿命は延びている。体力も気力も高まっている。これからの日本を支えるのは自分とばかり、元気なシニアの熱気に満ちていました。上述のような社会情勢変化の中でこそ、JICA専門家として厳しい開発途上国で「経営企画・戦略立案」「海外展開・国際化」「生産・物流管理」などの分野で活動・活躍してこられたJECK会員の力を貸す、社会に還元する時が来たと確信しています。完
(JECK23号会報投稿文より)

「今こそ、シニアの出番~生涯現役社会に向けて~」 2014/04/21
 
2013年4月にJECK事務局長に就任して、丁度1年が経過しました。この一年間、会員9名退会、現在登録会員数は約60名。創立から今年13年目、当時の半分以下になりました。老齢化、健康を害し病気がち、完全引退、現役継続等いろいろな理由が考えられます。
また、会のイベント、シンポジウム、講演会、地域見学会、懇親会などへの参加者も残念ながらめっきり減ってきています。『時代の流れだからしょうがない』という意見と、一方、『事業型NPOを目指し、会を活性化し会員を増やすべき』というふたつの意見があります。今後、“JECKはどの方向に進むのか、どのような運営理念・方針でいくのか、”がいま問われているのではないでしょうか。

しかし、もし後者を選択するならば、積極的な対外PR活動を行い、JECKの知名度をあげ、会員の皆様に活躍して頂く場、すなわち、出前や出張講座開設、他団体との連携など新事業の開拓と経費や運営費の見直しなど事業基盤の整備を行う必要があります。現在は、昔と違って健康であれば元気に長く働きたいというシニアが増えています。働く人が増えたら、年金以外に生活費を確保したり、将来に備えたりしたいシニアのニーズにも合います。本人にも国の経済にもプラス、厳しい国の懐事情も少しは改善される筈です。 なによりも、いままで培った経験や技術、語学を活かし、働くことで緊張感や責任感が保てます。それが健康寿命を延ばすのです。やる気と能力がある人には75歳を過ぎても就労可能な社会に向け、世の中の雰囲気や仕組みを変えていく気概と気骨のある同志がJECK会員にはいると私は信じています。完

あなたの一日を3時間増やす「超整理術」(高橋 美里著)を読んで  2014/04/15

 
4月6日付、「日刊ゲンダイ」で“ブックファースト新宿店2位(3月第1週)”という見出しをたまたま見付けました。日頃 より大変興味あり、ぜひ実行したい、なんとかしたいと考えている矢先でした。丁度そんな時、「整理魔」というネックネームを持つ私的ネットワークからの整理法を教わり「いつやるの。今でしょう」のタイミングでした。

よって、早速、本屋に出向き探しましたが、在庫ゼロ。結局5店回りましたがいずれも同じく「取り寄せ、入手まで1週間以上」といわれました。それでそれよりは早いだろうとアマゾンショッピングにてインターネット購入しました。 “仕事が忙しく自分の時間がない。やりたいことができない。そんな人が時間のムダを減らし、忙しさから解放されるためのメソッドを、14日間のプログラムで紹介している。

 1日目はデスク周りの整理。デスクワークに必要なモノを20種類に絞り、それ以外は処分する。2日目は書類の整理。書類の分類そのものが仕事の整理に繋がる。3日目は書類のデータ化。名刺もスキャンしてデータ化し、身の周りから紙を極力減らす。4日目はGoogleカレンダーでやるべきことの時間割を作成。5日目はいつでもどこでも仕事ができるように、仕事のデータを全てクラウド化。

という具合に身の回りの整理、情報の整理を行い、それを習慣化すれば頭の中が整理され、仕事がどんどん速くなる。1日3時間、自分の時間を生み出せる、というわけだ。著者は双子を育てながらインターネットを駆使して年商3億円を売り上げているというすごい女性。子供のころから時間の使い方に工夫を重ね、勉強も仕事も魔法使いに見えるほど早いという。そのノウハウを集大成した14日間のプロムグラムを実行すれば、「いつも忙しい」から、脱皮できるかもしれない”(KADOKAWA 1300円 ゲンダイより)

この本のとおり、忠実に実施して2日目まで進みました。お陰でデスクと引き出し、机とそのまわりがすっきりしました。さらに、仕事の4つの整理、「今日やること、5分でできること、期日がある事、期限がないこと」が明確になり、余裕が出てきました。仕事では「5S・カイゼン」を唱えながら、自宅では約40年間「手つかず」。わが狭い書斎・納戸には一度も使用したことのない「名刺帳」10冊、殆どページをめくったことのない報告書、資料・データファイル約500冊。その他新聞・雑誌の切り抜き、メモなどを入れた箱類が山積みされています。

加えて、PC3台、ファイルやデータがどこに何が保存されているか、すぐ取り出せないばかりか、全く行方不明になっているものも多く、恥を忍んで再送してもらうことたびたびです。探す、作り直す余計なムダな時間は肉体的、精神的にもよくありません。これを機に一念発起、少しずつ、時間を掛けて整理・整頓に励みたいと存じます。完


.「私の異文化体験」~熱気と商機のミャンマーパート2~

3回目のミャンマー出張である。第一都市ヤンゴンは、連日30度前後の真夏日が続いていた。今日、関東でも雪が積もったというニュースが届いた。当地は半袖、エアコンが効いているオフィスやホテルの部屋では肌寒いくらいである。まさに別世界・別天地である。(写真;寝釈迦像)

しかし、昨年9月に比し、日中でも日差しはマイルド。刺すような紫外線ではない。しかも朝晩の気温は20℃前後に下がり爽やかでる。それに誘われてか欧米からの観光客も多く見かける。“黄金のシーズン”とはよく言ったものである。

今回の出張目的は、私が顧問をしているP社製品の輸入代理店候補の絞り込み、契約内定の取り付けである。今まで2回訪問し、商品の説明、デモ後商談した企業の中で、商品に強い関心と興味を持ち、市場・顧客開拓をしてくれそうな企業を再訪して決定することであった。今回でその所期の目的はほぼ果たせそうである。足蹴に通うことで“黄金”より大事な企業と人との“信頼関係を築く”のは、世界共通のビジネス成功の基本である。

ヤンゴンから第2都市マンダレーに移動する国内線空港待合所では、周りに日本語が飛び交っていた。殆どの人はスーツ、ネクタイのビジネスマン風、外交官、または調査員や研究者、大学教授風の人を多く見かけた。どうも観光客ではなさそうだ。だが、行き先はマンダレーではなく、どうやらバガンやその他地方に行ったようだ。

日本人向け日本語新聞「Yangon Press」によると、当国への日本の投資は、なかなか進まないようである。「NATO (NOT ACTION TALKING ONLY行動しない口先だけ)」と揶揄されるように、様子見や企画段階の企業が多いそうだ。投資額では、香港、シンガポールとマレーシアから水をあけられているのが現状だ。現在、最大投資国は中国、次いでタイが2番目だが日本は投資額では第11位に過ぎない。 (写真;商談中の出張メンバー)

JETROの話しによると、今のところ日本企業の主な投資は繊維業と産業などだが、他の業界に投資するため、調査や相談に訪ねてくる人も増えている“という。空港で見かけた日本人はこれらの関係者かもしれない。

同紙によると、今年は日緬国交樹立60周年を迎える節目の年である。我が国は、先の大戦で壊滅的な打撃を受け食料難にあえいでいた。そんな時、積極的に米をおくり援助してくれたのは、当時アジアでGDP最上位を誇っていたビルマだった。様々な経緯や背景はあるが、1954年戦後の賠償の放棄に最初に応じてくれたのもこの国で、同年に平和条約が締結された。日本がそんな昔から緬国から恩義をうけていたとは、恥ずかしながら私は知らなった。日緬60周年、昨年を上回る規模の経済プロジェクトと人的交流を行い、日本は恩義に報いるべきである。

通訳のミャンマー人は、“ダムや港湾の大型プロジェクトを契約した最大投資国は、ワーカー、エンジニアは勿論、機材や材料も持ち込む。そして、なんと掘り起こした土まで資源を含んでいると、本国に持ち帰る。当国雇用創出や消費拡大に貢献していない”と嘆いていた。我々はそれを教訓に単に儲けや利権を求めることだけでなく、未だ恩義・義理・人情が通じる緬国人に「自戒」の念を肝に銘じて付き合っていきたいものである。(完)

.「湘南ビーチFMラジオ取材 ~JICAインフォメーション~
2013/12/04

・アルゼンチンのどちらに滞在されていましたか。その印象は。生活はいかがでしたか。

―>コルドバ市。当市はアルゼンチン(以下、亜国)の第2の都市、商業・工業の中心地。一般的なイメージの大草原、パンパスとは異なり、山、谷、川、湖などあり起伏に富んだ、風光明媚な街でした。市内でも海抜400~800メートルあり、神奈川県の箱根に似た地形、風景、気候でした。生活は一年を通して寒さも暑さも厳しくなく快適でした。

・どのような状況からどんな要請があり、具体的にはどんな活動をしましたか。

―>約10年前からJICAは、亜国の「中小企業育成・振興」を目的としてヒト、モノ、カネ、情報提供などの支援・貢献をしてきました。その中でJICAと最も長く、深い関係にある「国立工業技術院(INTI)」には継続して海外シニアボランテイア(以下、SV)を派遣しています。2002年、私はそこに第1期生として赴任、今回、2回目に10期生として2009年に再赴任しました。具体的な活動は、「国際企業と対抗できる競争力の強化」。そのため、INTIコルドバがカバーしている州、都市、市町村の中小企業を巡回訪問、経営指導、主に製造・生産工場の「5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)、改善」の提言・提案をして実践指導をしました。

・オフィスを出て飛び回っていたそうですが・・

―>ゴルドバのオフィスを出て、2年間で外出・出張は約200回。約10都市、4万キロ余を車とバスで移動しました。(亜国には電車、地下鉄などないため)。換算すると1ケ月、3分の1オフイス、あとは準備・事後の整理などに当てました。

・2年間の活動の中でうまくいったことは。

―>5S,改善がなかなか浸透・進展しないため、日本の「中小企業診断士制度」「提案・表彰制度」導入をINTI本部に提案、基礎を作ったこと。

・反対に上手くいかなかったこと、その理由。

―>コルドバINTI支部のカウンターパート(同僚・受け入れ先)は本業務の経験が浅く、特に工場・現場経験ない、日本に来たことがない等などため、私の意見、見解があまり理解されず、時々見解の相違などありました。2年間では十分意思の疎通は難しいと感じました

・シニア海外ボランティアに応募したきっかけは、以前のキャリアは。

―>元々海外で仕事や生活をするのが好きだったので、自分の持っているスキルやノウハウを技術移転、社会貢献したいという願望がありました。以前、電気大手S社に34年間勤務、約20年間、開発途上国の協力工場(中小企業)の支援・指導をしていたのでSVの応募も同じ分野、職種で違和感、不安感はありませんでした。(因みに亜国には延17回訪問済み)

・シニアの場合は 家族も同伴できるのですが、肥後さんはいかがでしたか。

―>2回とも単身赴任でした。しかし、家内は陣中見舞いに各2回ずつ来てくれて、イグアスの滝など一緒に行き、家庭サービスをしました。

そのほかに何かありましたらご提案下さい。

―>休日、週末の過ごし方は、コルドバにいる時は、「テニス」。多くの亜国人と友達となり、別荘・牧場、自宅に招待されバーベキューを楽しみ、休暇にはチリにテニス合宿にも行きました。また、2年間で自宅に125名招待、天ぷらパーティーをして草の根の交流ができました。今でも、時々写真付きのメールが届きます。

―>SV本人は今までの経験や技能を活かすことにより充実感・達成感を味わえる。受け入れ側(INTI)も日本式近代的経営・管理手法が会得でき、国の発展、活性化に寄与できる。そして、送る側(JICA)も双方の国から感謝される、国際貢献できる素晴らしい制度だと私は思います。(完)

. 「私の異文化体験」~熱気と商機のミャンマー~

初めてヤンゴン国際空港に降り立ったのは、2013年9月27日(金)、18:40。まさに黄金色に輝く太陽が金箔の寺院を照らしながら沈もうとしていた夕暮れ時でした。ミャンマー(以下、緬国)は、私にとって102ケ国目の訪問国、渡航回数91回目となる処女地です。緬国は古くは「ビルマの竪琴」、新しくは今、世界から最も熱い視線と注目を集めている国のひとつです。訪問の主目的は、現在、海外ビジネスアドバーサーとして勤務している中小企業の緬国進出支援の一環とした輸入代理店・取扱店候補の調査でした。

当国で日本では見られない情景、10の不思議体験をしました。

体験1:至る所に仏院・お寺

日本のお寺、神社に相当する金箔で覆われた仏院(パゴダ)が至る所に建っています。遺跡都市バガンにはパゴダがなんと大小2,800あるそうです。国営もあるが民間人が自発的に建てたのも多いそうです。緬国人は功徳を受けたら返す精神が強い。そもそもインドで誕生したお釈迦さまが緬国まで托鉢に来て、残したその髪の毛を祭っているのが仏院です。そして、仏院では床に額をこすりつけて祈り、今までの感謝と来世に夢を託すのです。

体験2:履物はサンダル・スリッパが主流

国民の約98%は靴を履いていません。雨期(4月から10月)には毎日雨が降り、道路が冠水するので靴では不便との理由。因みに、ヤンゴンでは下水普及率38%。加えて、靴は高く、経済的な負担もありそうです。また、寺院にお参りにする際、必ず素足にならなければならないため、サンダル・スリッパだと便利という側面もあります。

体験3:顔に日焼け止め(タナカ)

頬にくっきり白いペンキを塗っているのを最初に見た時異様な感じがしました。実は、日焼け止め対策に政府も推奨しているそうです。現地の言葉で「タナカ」。(覚えやすい)これ用の木を水と混ぜて擦り液状にして塗るのです。(写真:観光客向け絵描き女性の頬に注目!)

体験4:怖いサイカー(自転車タクシー)

名前の由来は、二人乗せられる「サイドカー」からきています。フイリッピンやタイなどではバイクや三輪車で有名な「サブロー」「ジプニー」と呼ばれるタクシーには乗った経験はありましたが、自転車のサイカーは初経験。大人を二人乗せ、ひどいドシャ降りの雨の中、傘をさして狭い道でダンプカーとすれ違った時はさすがに生きた心地はしませんでした。世界中で最も怖い、最も乗り心地の良くない乗り物と感じました。

体験5:ロンジー(腰巻)の世界

当国ではロンジーはフォーマルな服装です。男女約半分の人たちが纏っています。よくテレビで政府高官やアウンサンスーチーさんが纏って内外の要人と会っているのをみかけます。
一見、不用心、活動しにくいと思われがちですが、その逆で風通しがよく、蒸れない、快適そのものと緬国人は口を揃えて言っていました。


体験6:水・氷が危ない!

当国の地方、村の人々はいまだに雨水を貯め、沸かして飲み水としている人が多い。都会の屋台や露店では汚い水で皿やコップ洗いそのままテーブルに出しているのを何度も目撃しました。食堂で本料理の前に必ず出る突き出しの「生野菜」は見るからに新鮮で美味しそうですが、一発でおなかを壊すので“外国人は絶対食べるな”と現地ガイドに厳しく止められました。

体験7:人件費(中国の1/5)、物価が安い(日本の約1/10)

人件費が安い精か、働いているスタッフがどこでも多い。例えば、宿泊したホテル(3つ星)の受付は、7~8名。さしずめ、日本だと1~2名が普通です。ワーカーの月給は平均2万~3万円、マネジャークラスで5万~6万円。また、すべての物価が安い。特に居酒屋やレストランでの飲食は日本の約1/10。3人でビール、ワインをしこたま飲んでもひとり500円~1千円位。

体験8:料理は概して辛い

料理は中華料理が主体ですが、辛いのが多い。世界3大スープの一つ・タイ料理「トム・ヤン・クン」の辛さは頭から汗が噴き出て、ビールを口に流し込まないと食べられないほど強烈でした。また、「パクチ(日本のセリ、毒消し)」はほとんどの料理に入っています。芋虫みたいな臭い匂いが苦手の人は食べるものが限られるかもしれません。私は大好きで別皿にもらってツマミにしていました。 

体験9:テレビも番組も中国・韓国が独占!

電気店ではテレビはサムスンやLGが飛ぶように売れ、フジやサクラなど日本の名前を付けて中国製がこれに続いて売れています。(あえて日本名にしているのは、日本製・高品質をアピールするため)。ソニーやパナソニックなど日本製品は高くて売れていない。

驚いたことにテレビ番組面でも中韓勢が圧倒していることです。ドラマは韓流一色。ニュースは中国語。日本の番組は30年前の「おしん」以来、放映されていないそうです。日本番組は日本人目線・文化のものが多く、ここでもガラパゴス現象(グローバル仕様でない)のようです。

体験10:若い国(平均年齢26歳)、女性が大活躍

企業・オフイスでは働く女性は若いひとが多い。日本人の感覚では中学校卒業生にしか見えないが、実際は20歳~30歳とのこと。また、各企業、課長・次長クラスは殆ど女性、女性の社会進出は日本より進んでいると感じました。(写真:女性マネジャーと商談中の筆者・左)

ミャンマーは、2013年 東アジアスポーツ大会、2014年 アセアン(東南アジア諸国連合)会議議長国、2015年 総選挙(世界的に有名・高名なアウンサンスーチーさんが立候補予定、写真:自宅前にて)とビッグイベントが目白押しです。その経済効果は計り知れないものがあります。

多くの来訪者や観光客に備え、道路や寺院など実に綺麗でした。道路や寺院にごみ、紙屑など落ちていない。インドやアルゼンチンなどと比較して格段に清潔です。よく掃除をしている人見かけました。また、走っている車、大部分は中古日本車も綺麗で新しい車が多く、ガタガタのポンコツ車は全く見かけませんでした。

2年前、軍政から民政に移管、欧米が経済制裁を解禁したのを機に、世界中の企業がバスに乗り遅れまいと殺到しています。

だが、殺到する外国資本、観光客にインフラが追い付かない。水、電力、オフイスが足りない、外国語を話す人が少ない、高いなど問題も山積しています。

しかし、日本国土の約2倍の広さ、豊富な労働人口、平均年齢26歳の若い国、高い識字率、中国5分の1の安い人件費、真面目な国民性、親日、豊富な資源。間もなく、中国に代わって世界の製造拠点、消費市場になる残された最後の「宝の山」だと実感した異文化体験でした。

 そして、現在の緬国変貌を「ビルマの竪琴」の水島上等兵がみたらどんな印象を持つだろと思い巡らす興味つきない旅でもありました。完

2013/10/12 放友会 肥後 照雄・記

 
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日本の国際協力 

なぜかアルゼンチン(以下、亜国)とは浅からぬ縁がある。第1期生シニアボランテイア(以下、SV)として赴任したのは丁度10年前。S社現役時代、専門家としての入出国を含めると,計17回となった。そして、今回2回目SVとして、2009年10月から昨年9月末日まで2年間滞在した。

同国での任務は、中小企業が国際企業と対抗できる競争力の強化。任地は第2の都市、
コルドバであった。活動として、出張・外出200回、訪問企業127社、セミナー講師20回、主にバスと車での移動5州11都市、距離延べ46,000km(地球1周余)。三分の一は、オフィスを出て飛び回っていた計算になる。

 この結果、主な下記課題・問題点が判明した。

①  企業戦略ない、トップにビジョン・ポリシーがない

②  マーケテイング活動していない、顧客志向の考えが浸透していない

③  低い生産性、QCDS(品質・コスト・納期・サービス)の認識薄い

④  指導者のスキル低く、工場現場での実践経験が乏しい等など

⑤  ごく一部の中小企業を除き、およそグローバルでない企業・指導者たち

 これに基づき、企業診断手法、生産性向上に関する工場での実践的助言、日本的生産
手法・諸制度紹介、具体的には小集団活動、提案制度、中小企業診断士制度導入などを実施した。

特に、亜国に初めて日本式「中小企業診断士制度(ATG)」を導入した際には、まず配属先・国立工業技術院本部(INTI)中小企業振興グループ長より、「我々の最初の
ATG認定試験は、偉大な成功を収めた。これは貴殿の経験と協力・支援の賜物」と感謝された。

明日、大事な会議や発表会があるにもかかわらず、予定通り欧州やカリブ海などへ休暇旅行に行く。サンプル提出の期日や約束を守らない。英語を話す中小企業オーナーは少なく、また、英語のパンフレット、会社案内・ウェブサイトもない。
同国は個人主義社会である。このようにビジネスの相手としては、誠にやりにくかった。

やはり.亜国は農業国で,パンパに種を蒔いて放っておいても大豆は育つし,牛に餌を与えずとも勝手に生えている草を食べて大きくなるので,
「食っていける」というのが根底にあると思う。もっと豊かになりたい欲がない。つまり、「ハングリー精神がない」のである。

 本当に驚いたのは.東日本大震災が起こったときに配属先スタッフは勿論、テニス仲間、アパートの住人やタクシーの運転手など誰もが自分のことのように、日本人に同情し、お見舞いやお悔みの言葉をかけてくれたことである。友人かくあるべきと思った瞬間である。友人としては最高だと思う。義理、人情、恩義に厚く、家族・友人を大事にし、人生を謳歌する亜国人、日本人とは実に好対照である。

日本の7.5倍の国土、人口は三分の一。原油や鉱物資源などを有し、高いポテンシャルを秘める亜国。いつかは大化けするかもしれない、魅惑の尽きない亜国。何回でも行きたい国である。完

2013年6月 JECK(JICA帰国専門家連絡会かながわ)冊子[日本の国際協力]より)


.「教える喜びは語る喜び」

放友会には、「学ぶ」だけでなく、「教える」ことに携わっている会員さんも数多くいます。今回の特集ではそんな方々をお招きして、教えることと学ぶことについて、TS氏の司会による座談会の模様からお届けします。

TS:放友会は人とのコミュニケーションがとれて、勉強も長続きするといった良さもたくさんあるんですね。
さて、いろいろな分野で教えることに携わっている皆さんですが、次は教えていての楽しみ、大変さなどについてお聞きしたいと思います。

TS:では始めていきたいと思います。今回は「教えることそれは学ぶこと」というテーマでお集まりいただいたわけですが、MTさんは、ピアノの個人指導から音楽療法、Ykさんは、インターネット、パソコン操作、そして肥後照雄さんは、企業の海外展開と、大学でグローバルマネジメントと三者三様に、いろいろな分野でそれぞれ違った人たちに教えているということです。実際の体験談を語っていただき、それを通じて思ったことなどをお聞かせください。では早速なんですが、放送大学に入学され動機や経緯、思い、そして良かったことなどからお願いします。

肥後:私の主義・モットーは、“生涯現役・終身学習”です。働ける限りは働く、社会とずっと関わりを持ち続ける、人と触れ合い、やりがいのある仕事を続けたいということですね。そのためには、過去の経験やスキルつまり技能だけでは通用しないじゃないかというのが、放送大学に入学した動機です。今までの仕事は、ひとつには海外で中小企業の人たちに日本の技術、システムを教えてきたこと、もうひとつは現在も埼玉県の大学の非常勤講師として、学生に教えているということです。この違う分野、すなわちビジネスマン、中小企業のエンジニアに教えること、それから「グローバルオペレーションズ」という科目でやっているんですけれども、大学生を海外で活躍する人材に育てることを通じて、社会との関わりを持っております。
また放友会に入会して、人と知り合い、博物館に行ったりと、ふれあいの場に良さを感じています。

TS:放友会は人とのコミュニケーションがとれて、勉強も長続きするといった良さもたくさんあるんですね。
さて、いろいろな分野で教えることに携わっている皆さんですが、次は教えていての楽しみ、大変さなどについてお聞きしたいと思います。

肥後:ビジネスマンの場合は、企業がお金を払ってビジネスを成功させたいという気持ちが根底にあるのに対し、学生は、親に費用を出してもらってまぁ単位を取ればいいと、  一生懸命学ぶという気持ちが少ないようです。
ふとしたことから「なぜ日本人は学ばなくなったのか」という本を読んでみましたが、これがまさに私が大学で教えている実態だと思いました。著者の明治大学の齊藤孝教授は、「昔は先輩や教授や医者だとかを尊敬して学ぼうという姿勢があったが今はない。テレビやインターネットがあるので、本を読まなくなった」というのが大きな理由としてあると書いています。それから日本の若者のハングリー精神がなくなっちゃったと。一生懸命勉強して、偉くなって世界に羽ばたきたいという人が他の国の半分以下だそうで、なるほど私の授業でも半分以上が寝ています。アルバイトで夜疲れているということでしょうが、そんな実態を見ますと、私は本当に日本の将来を憂うわけです。 また90 分の授業をする場合でも準備は十倍ぐらいかかる。それでもなぜ教えるかっていいますと、我々の年代になると、今までの経験や技術、スキルを、若い人に教えたい、伝えたいという気持ちも強いからなんですね。放送大学で新しい知識を入れ、テキストや授業を参考にしながら、少しずつ教え方を変えていくのも重要かなと考えております。  
放友会の会合や雑談の中から、ヒントになるものも多々ありますね。

肥後:昔のままの古いだけの経験や技術だけでは、世の中が日進月歩で進んでいる中では通用しないので、いろいろ自分で勉強しなければいけない。その点で、放送大学に入っていて良かったなと思うと同時に、もう一つ心がけているのは、講演会で一流の人たちの話を聴くことです。そうすることで今の状況なり、世の中の動きなりを、把握できるからです。現役時代50 代の頃から、勤め先の厚木から月一回、東京銀座に講演を聴きに行っていました。仕事が終わった後、自費で、東京まで交通費、講演費、またその後の懇親会とかまで、お金と時間がかかるんですが、そうした自己投資によって、また人脈が広がりました。懇親会で名刺交換したり同じ志を持っている人と遇ったりして、大学の非常勤講師の話も、中小企業の非常勤顧問の話も全部そこから結びついてきたことを考えると、放送大学に入っている方も皆さんそうだと思うんですけど、自分に投資して時間とエネルギーを使って次にチャレンジしているという点では共通ではないかなと思います。教えることとは自分を磨くこと、教えることは学ぶこと、学ぶことは生きることですから。

TS:放友会は人とのコミュニケーションがとれて、勉強も長続きするといった良さもたくさんあるんですね。さて、いろいろな分野で教えることに携わっている皆さんですが、次は教えていての楽しみ、大変さなどについてお聞きしたいと思います。
:教えること、そこから学ぶことを通して人と付き合う。一期一会という言葉もありますが、出会いがまた人生を豊かにするんですね。私は今日、放送大学で学ぶ皆さんの底ぢからというものを、同時に放友会が多士済々な人材の宝庫だということも感じました。自己のライフデザインをきちんと考えておられていることにも、本当に感心いたしました。

2013年5月 「放友会だより」 No,32より抜粋


.「生涯現役・終身学習を目指して!」

昨年9月、アルゼンチンでのJICA・SV活動を終え帰国した。振り返ってみると、1971年8月、ソニー現役時代に生まれて初めての海外出張以来、海外ビジネス、
海外での仕事・生活は実に40年、海外滞在は累計10年となった。 

この間、ビジネス・プライベート旅行等で日本入出国89回、世界約100カ国、延べ約400都市を訪問した。海外約2000社、国内200社の企業・工場訪問済。一貫して中小企業育成・振興に携わってきた。

私は、海外ビジネス・SV活動の意義・意味は次の3つの段階があると理解している。
第1段階 ― 開発途上国の経済・社会の発展・復興への貢献

第2段階 ― 友好親善、相互理解の深化

第3段階 ― 経験の社会還元

世界各地の開発途上国を単身で転々としながら言語、歴史・文化、習慣・環境が異なる厳しい環境下、各国の経済・社会の発展・復興に寄与してきた。また、草の根、庶民レベルでの多くの国々の人たちとの友好親善、相互理解に努めた。すなわち、第1・2段階は、充分達成したと考えている。だが、今後ももし機会があれば継続したい気持ちはある。

今後、残された人生は、海外ビジネスで得たノウハウ・スキルの社会還元、次の若い世代へ伝授、伝達することをライフワークとしたい。第3段階の実行・実践である。

2012年8月 NPO「シニアボランテイア経験を活かす会」会報(No.99)原稿