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 渡る世界に鬼はなし




 
エジプト・スフインクス前にて
 ソニー株式会社を早期退職して今年で18年目になります。この間、訪問国延べ100ケ国、都市420、日本入出国99回となりました。(海外赴任・出張・旅行の足跡

 現在も継続して海外の最前線で仕事や生活をしています。しかも、ソニー現役時代には行ったことない国、ボスニア・ヘルツエゴビナ、モルドバなど中欧・東欧諸国などにも行きました。やはり処女地・初めての国々は、とても興味深く新鮮でした。この地域は一般的に貧しく、寒さも厳しい、食事も粗末で、暗くうら淋しい雰囲気でしたが、人々は心豊か、義理人情が通じるのを発見したのは驚きでした。

 またJICA 専門家で2回、シニアボランテイアで2回、アルゼンチンに赴任できたのは夢にも思わなかった出来ことでした。延19回の訪問となりました。そのほか、ベトナム、ガーナー、ミャンマーそして香港にも行く機会があり、現役時代に得た体験・経験を活かすことができたのもS社にて34年間在籍したお陰と深く感謝しています。

 さらに、私用旅行としてエジプト、トルコ、ベルギー、オランダ、インドにも行きました。本欄で夫々の大陸、国々で印象に残ったそれぞれのエピソード,トピックスやハプニングを紹介させていただき、私の人となりのご理解の一助と、その国に行ったことのある人にとっては,「良き思い出」を、そして行った事のない人にとっては、 海外の楽しさ,素晴らしさ」を少しでもわかっていただければ膨大な幸せです。

 これらの国々についてネットワークからネットワークへ『渡る世界に鬼はなし』として配受信したメール、写真は良き思い出、素晴らしい経験です。これらの中から特に珍しいトピックスをピックアップして本欄に掲載、共有したいと考えます。












































 
2016/10/09 『YOUは何しに南米へ7』本年度、JICA『中南米日系社会との連携調査団(パラグアイ・アルゼンチン』の出張は、本日終了。企業/団体、ショッピングモール・スーパなどの視察、商談会、懇親会などタイトなスケジュール、ハードワークの16日間。時差ボケも、風邪などの病気・怪我もせず、無事帰国。
 今回のミッションは、両国中小企業と日本の新しい製品・テクノロジー連携調査・模索。久々に多くの競合他社(参加企業13社)とのビジネス最前線。大きな不安、重圧など緊張感ある出張だった。一方、終わってみると、公私に充実感、達成感ある(例;ビジネスクラス、ラウンジ利用、旧人知人との再会など)出張でもあった。用意した名刺200枚、カタログ100枚を全て消費。自己/自社紹介、プレゼンも、継続して勉強しているお陰で拙いスペイン語でなんとか対応。今後、「ODAを利用した進出」検討/連携推進など宿題あり、当分本案件にかかりっきりの可能性大。‟やること、いく所ある”のに感謝。来年、日本出入国100回目、ア国訪問20回目の節目の年。今後も‟生涯現役・終身学習・一生青春”は続けたい!?。(写真:仕事中の筆者)

2016/10/06 『YOUは何しに南米へ6』海外出張・旅行のもう一つの醍醐味は、以前から知っている旧友・旧知の人たちとの再会。今回、パラグアイ3名、アルゼンチン7名と再会。会った回数が最も多いひとは5回目。JICA二本松訓練所(福島県)での赴任前研修会講師を含め、ア国で3回、パ国で偶然会ってビックリ。お互い、南米が好きなのか、何かの縁を感じる。最近、コロンビア人と結婚、通常ボゴタで生活。今は業務調整員としてアスンシオンに在住在勤という。次回はコロンビアで6回目の再会を約束した。
 ア国K社社長夫妻とは2年振りの再会だが、既に10年来の家族ぐるみの付き合い。今回も遠路ロサリオ(ブエノスより400㎞、車で約5時間)からわざわざ駆け付けてくれた。本人達は『ベジタリアン(菜食主義者)』だが、私の肉好きを知っていてブエノスで最も美味しくて有名なレストランで『アサード(チュラスコ)料理』に招待してくれた。まず、エンパナーダ(餃子)、次に、モリシージャ(血の腸詰め)、チュンチュリン(するめのような固い腸)、チョウリソ(ソーセージ)。最後に、約500gのステーキ。ア国でしか味わえない世界一の肉料理に超満足。だから海外出張・旅行は 止められない!
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2016/09/29 『YOUは何しに南米へ5』パラグアイ・イグアス『小林旅館』は市内から車で10~15分の郊外にあり、周りには人はおろか、家も全くない荒野の一軒家。福岡出身の日本人夫婦が経営している。名前の通り古く懐かしい昭和の香り漂う旅館。オカミサンは我々が久し振りに日本からの来客だったのか、深夜遅くまで焼酎を飲みながら入植当時の過酷かつ熾烈を極めた苦労話、その後の辛酸をなめる人生、身の上話を聞かせてくれた。
 そして、‟なぜ、こんな離れたところに旅館を建てたのか”という質問に、”初めて入植した土地を離れたくなかった”という答えに納得。厳しい環境を物ともせず、逞しく旅館を切り盛りし、家族を養っている話・姿に深く大感動。最後に屋上に案内してくれた。露天風呂があった。夏季、ビールを片手に、入浴しながら満天の星を見上げる、日本いや世界でも滅多に味わえない雄大さ、浮世離れした旅館。10年振りに観た満天の星空。一生忘れられないイグアスでの一夜となった。
写真:満天の星、小林旅館、その近辺、三杯お替りをした朝食

2016/09/28  『YOUは何しに南米へ4』パラグアイ・イグアス農協/日本人会訪問。世界三大滝のひとつ、『イグアスの滝』を知っている人は多い。が、昔この地がジャングルで、パ国に初めて日本人が開墾・農耕、農作物栽培発祥の地と知っている人は少ないのでは。かく言う私も初めて知った。この移住地は首都アスンシオンより295km(バスで約5時間)、滝から40kmの地点にある。当初、JICAプロジェクトとして、土地開拓、病院、学校など建設。現在、移住地 人口12,000人、日本人は800人。市長は日系人。日本人が経済、治安など握っている。今年は日本人移住80周年、去る9月9日、眞子内親王殿下もご参加、盛大な記念式典が開催された。
写真:入植記念碑、参加企業と鳥居前で、農協内会議/外観など。

2016/09/27  『YOUは何しに南米へ3』パラグアイ・アスンシオンでの商談会。目的は、調査団参加企業がパ国の中小企業に対して調査団企業の概要を説明し、ビジネスに関心ある企業と商談を重ね事業のパートナーとなる得る企業を見つけること。パ国中小企業約100社が来館、会場では日本語、スペイン語、英語が飛び交い、真剣かつ真面目な面談・売り込みが会場一杯に。当社製品・テクノロジーに関心と興味を示した企業6社。各社に対しP/Pointでのプレゼン 10分、動画が 5分、相手企業概要説明 10分、Q&A 5分、計 30分の時間配分。動画は言葉よりやはり説得力が。
写真:商談中の筆者(女性はアシスタント)、会場内・外の様子。

2016/09/25  『YOUは何しに南米へ2』最初の訪問地、パラグアイ・アスンシオン到着。2年前に訪問して以来4回目。同国の経済発展は著しいものがあり、郊外には大型ショッピングセンターや、マンションが建設され、数年前には見られなかったような現象が。ヒルトンホテル、ショッピングセンター・デルソルしかなかったのが、現在は大型ビルが林立。しかし、恩恵を受けているのは、中流以上の国民で、貧困層の改善はまだまだ? これは途上国、中国ほかにも共通するところか。

写真:内山田ホテルからの眺望、アスンシオンが一望できる。
  :最近開発された大型ショッピングセンターの風景

2016/09/24  『YOUは何しに南米へ?』本年度JICA『中南米日系社会との連携調査団(パラグアイ・アルゼンチン』が今日からスタート。参加企業13社同行。今回、従来と異なる最大の相違点は、「DELTA航空、ビジネスクラス」利用すること。まず、「くつろぎのサービス」で駅から成田空港までの送迎。重い荷物とバスや電車の乗り降りもなく、大型高級車クラウンでゆっくり2時間のドライブ。次に、「SKY CLUB」ラウンジの利用。10年振りのラウンジ利用。海外旅行の雰囲気満点。最後は、シートははビジネス(事実上ファースト)クラス。早速シャンペインを。ベッドは180度のフラット、メイン料理も仔羊すね肉煮込みほか豪華。今回で99回目の日本出国だが、すべて最高クラスの待遇。”長生きしてよかった”を実感!?。

 






















2016/04/12 『YOUは何しに香港へ4』 

今回出張はまず香港E社を前回訪問(2016/12)した時は何もなかった賃貸オフィス・スペースの状況視察。新オフィスは計4フロアとなり、新しい事務機器も配置・整備済み。積極的な投資とやる気が伺えた。また、次のハイライトは、香港販売認定証を取得すための改造費用、競合他社製品への対抗機・新製品開発に関する協議。難航が予想されたこれらの議題も当社社長の英断で半日で解決。出張目的を遂行できた。さらに、営業スタッフへのデモのレクチャーも実施。15名が参加。熱心かつ真剣な質疑応答がなされた。実りある有益な出張だった。

2016/04/12 『YOUは何しに香港へ3』

当地はどんよりと黒い雲が空を覆い今にも雨が降りそうな天気。いよいよ商談の開始。今回の主議題は、毎回紛糾する「価格交渉」と多大な投資が必要な「新製品開発」の2点。午前中、両社長のせめぎ合い後、妥協点を見出し、無事成約。営業部長など幹部と共のランチは恒例の中華料理、久しぶりに大人数による円卓の宴会はアルコールなしでも賑やか。同社は社長・副社長の下、チームワーク良く、みな積極的。今後の販売台数増、販路拡大に期待がわく。ランチ後全員で記念撮影。

2016/04/11 『YOUは何しに香港へ2』海外出張の大きな楽しみのひとつは『食事」現地産のビールと郷土料理。当地は基本的には中華料理だが、そこは国際都市、世界中の料理が味わえる。最初の夜は、ホテルから近い、前回(2015/04) も訪れた九龍旺角(MONGKOK)の‟八月軒(JASMIN GARDEN)” にて本格四川料理に舌鼓を打った。ただ、同行の新社長は下戸で、ワインなし、青島ビール1本の寂しい晩餐に(ホンコンより)

2016/04/11 『YOUは何しに香港へ1』

第97回目の日本入出国で香港出張。顧問先のP社社長、担当者に同行。追加オーダーや新規モデル開発などの商談が主目的。毎回海外出張はビジネス最前線・丁々発止の緊張感、出来る限り思い通りに導く責任感が刺激的。他方、私にとって海外出張の醍醐味は、『機内食とエンタメ』 今回ANA(B777-200)利用の為、一応 ‟Acceptable (適応内)” タンドリーチキン、スペイン赤ワイン2杯堪能。レオ様待望のアカデミー賞受賞の「レヴェナント(蘇えりし者)」鑑賞。156分の長編。全編厳しい大自然の中での暗い画面、執念の復讐劇は正直好みではないが、飛行時間約5時間のいい時間つぶしに。(ホンコンより)


 
 16/02/25『YOU は、何しに台湾へ?』partⅢ

・中正紀念堂(ちゅうせいきねんどう)
中華民国台北市中正区に位置する総統蒋介石の顕彰施設。台湾の三大観光名所の1つであり、中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。 中正紀念堂は、中華民国の初代総統である蒋介石を顕彰し1980年に竣工した。中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名である。 蒋介石が1975年に死去した際、行政院(日本の内閣に相当)は全国民の哀悼の意を表すことを目的とする紀念堂として建設された。初めて観た衛兵交代式は荘厳で格調高いものだった。
・故宮博物館
いよいよ台湾観光最後のハイライト「故宮博物館」。世界四大博物館に数えられる国立故宮博物院。そのコレクションは、宋、元、明、清の歴代皇帝が収蔵してきた超一級品の宝物で構成されている。1925年に北京に故宮博物院が設立され、一般公開したのが始まり。その後海外でも故宮展も開催されるようになると、あまりに素晴らしい収蔵品の数々で、その名を世界に知らしめている。絵画、書、図書、文献、陶磁器、銅器、玉器、そして皇帝の贅沢なおもちゃのよ...うな珍玩など、69万点もの貴重な品々が所蔵されている。もっとも有名な「翠玉白菜」は2016年10月6日まで嘉儀市の別館にて展示中の為、観ることはできなかった。

16/02/23『YOU は、なにしに台湾へ?』partⅡ 

◆花蓮太魯閣峡谷観光
台湾8景のひとつ。国立公園に指定された太魯閣(タロコ)渓谷。するどく岩肌をけずった川がつくった渓谷美。険しい断崖はかってのサンゴ焦の海底が隆起してできた大理石の崖。見渡す限り、3,000メートル級の山ごと大理石。埋蔵量は無限とか。
大理石の断崖絶壁の間を流れる川のダイナミックさはまさに天然の芸術!台湾観光の最大ハイライトと言っても過言ではない。お薦め観光スポットのひとつ。
◆大理石工場見学...
台湾東部の最大の都市「花蓮」は大理石の産地として有名な街で、空港のターミナルや待合室、駅のホーム、歩道などにも敷き詰められている。トイレも大理石が、なんて贅沢な!
渓谷の近くの大理石工場には、各種の原石、特にエメラルドグリーンヒスイの原石の美しさ、大きさには見学者一同感嘆の声。大きな機械で石を切断する際、細かい粉塵が漂い、作業者(ヴェトナム人?)はマスクをしていたが、病気が心配に。
◆高雄市内観光
台北に次ぐ台湾第2の都市、南部台湾の中心地。気候は亜熱帯気候となっているが、はっきりとした四季はないようである。観光案内によると、“地理的条件や海流の関係から年中陽光が差し、南国ムードに溢れる”とあり、期待していたが時々雨がパラツク生憎の天気。旅行中、まったく太陽が視えず、曇りか雨、天候には恵まれなかった。ただ、世界有数の国際貿易港だけあって、新鮮な魚介類が食べられる。主な見所は高雄で一番大きく有名な夜市である六合国際観光夜市、食べ物中心だが、買い物も楽しめる。龍の口から入り、虎の口から出てくることにより、自分のこれまでの悪行が清められるといわれる龍虎搭も訪れた。


2016/02/22 『YOU は、なにしに台湾へ?』partⅠ
 昨年11月、放送大学・国際交流グループ(KKG)主催セミナー後の親睦会で、中国語研究会のメンバーと同席に。彼らから訪台の計画を聞き、即参加を決定。実は、台湾は私にとっては第2の故郷、生まれ育った国。約20年振りの里帰り。 
『96回目の渡航』
今回の海外旅行は、1971年、初渡航以来96回目の日本出入国。 また、私用海外旅行は14回目。今年初めての海外旅行。父が亡くなって丁度節目の25年に台湾訪問とは浅からぬ因縁を。
『3時間30分の空の旅』
同行するメンバーは8名。初めて利用するエバー航空で羽田空港を10:45離陸。今回、特別料金の為、残念ながらANAなどのスターアライアンスによるマイレージ加算されなかった。が、懸案(!?)のエコノミークラスでのフリードリンクは適用。機内のランチ、シーフードと赤ワイン(しっかりとお代わり)とかねてより観たかった映画「007スペクター」を鑑賞、3時間余空の旅を満喫。...
『九份・瑞芳観光』
台湾との時差は1時間。台北(松山)13時到着。天気は曇り、約18℃と思ったより寒くない。早速九枌観光。当地は松山から約40㎞、バスで1時間。山頂のお寺には急な坂道を登らなければならない。途中、赤ちょうちんが特徴的な九份の風景を見ることができました。夕食はホテル内レストランでの「広東料理」。久々の本格中華料理にビール、箸が進む。また、ほとんど初めて会う人たちだが、以前からの知り合いように、和気あいあい、矢継ぎ早のジョークに抱腹絶倒。“旅と笑いは、精神の若返りの泉”。
  15/04/27『YOUは何しに香港へ3』

20年振りに訪問した「S社香港」のオフィスは場所こそ移動していたが、高層ビル33階、窓からは摩天楼、遠くに海が一望できる絶景は同じ。T.N社長は歴代錚々たる先輩達の歴史と伝統をしっかり継承している印象(社員400名)中国向けの製品、部品等の販売が好調の由。昔のS社には大勢いた元気でたくましいツワモノと久々に会った!?

15/04/27『YOUは何しに香港へ2』

20年振りの当地の激変ぶりは予想を遥かに超えるもの。まず、以前のビルの中を離発着する空港が郊外に移転。街には高層ビルが林立。現在、人々は家購入価格が高騰、中心地域では数億円。東京より高いので賃貸アパートに住み、地下鉄、バスの交通網が整備され、車を持たないひとが増えている。
よって、金を使うことがなく、日本などへの海外旅行、高額家電、家具などがよく売れている由。だから、夕食で行った香港料理店は満席。家族ずれで溢れている状態に納得。また、健康志向製品販売が好調とか。我々商品の大量販売に期待大!?(写真:懐かしい青島ビール)


15/04/27『YOUは何しに香港へ1』

20年振りの香港出張は、日本入出国95回目の節目。現在、サポートしている中小企業がミャンマーに続いての香港進出決定。正式契約調印式及び商品説明会を開催予定。世界に冠たるキャセイパシフィック(B777-300)での約4時間のフライトは、サービス、設備は「満足」。楽しみな食事は「マーマー」。が、フリーの赤ワインは美味で3杯おかわり。香港より(引き続きホンコン便りを配信予定)

  15/03/02『YOU は、何しにミャンマーへⅤ』

無事「代理店契約締結・調印式」終了。やっと、念願のミャンマー進出が実現。近々第1ロットの発注・出荷の運びに。同夜、両社で調印を祝し、また今後の発展、展開を期し「記念晩さん会」を開催。場所は、市内きっての高級ホテル「シャングリアホテル」。日本では高価で、滅多に口に出来ない「ペキンダッグ」高級ワイン・各種中華料理をご相伴。(ヤンゴンにて)
15/03/02『YOU は、何しにミャンマーへⅣ』

約1年振りのヤンゴン市。変わっていないのは町の喧噪や渋滞。相変わらず賑わっている露店や屋台。(写真:馴染みのテニスショップのオーナーと)変わったのは、ホテルや複合施設の「建設ラッシュ」「古く汚い車が減っている」「携帯電話を持っている若者が増えている」「外国人観光客が多い」この国が確実に改革され、国民生活も改善、着実に豊かになっているのを実感。訪問目的だった「代理店契約」も無事締結。残り少ない滞在を楽しみたいと思います。(ヤンゴンにて)

15/03/02『YOU は、なにしにミャンマーへⅢ』

ヤンゴンは、連日35℃前後の猛暑。来月中旬のお正月に当たる有名な「水祭り」頃には40℃前後の酷暑に。ギンギンに冷えた「ミャンマービール」がおいしい。ホテルは、毎回投宿の「Panorama Hotel」スタッフとも顔馴染み。市の中心に位置し、隣がスーパーマーケットと利便性抜群。窓から遠く黄金色に輝く「バゴダ’(寺院)」 ミャンマー料理は意外に美味で、日本人の口に合うメニューが多く堪能しています。(ヤンゴンにて

15/03/02『YOU は、何しにミャンマーへⅡ』
成田ーヤンゴン・NH 0913便は、ボーイング767-300。先回利用したUA, Thai Airとは異なりアルコール類はフリー。映画は日本語吹き替えや字幕多数。話題の「フューリー」と「イミテーション・ゲーム」(おすすめ)~ドイツ暗号機エニグマを解読する天才数学者の秘密~を観賞。ワインは、Reserve D 'EOLIE(フランス産)。料理は和洋食より選択。これだから海外出張は止められない!?(機内にて)

15/03/02『YOU は、何しにミャンマーへⅠ』 
95回目の日本出国先はミャンマー。4回目となる訪緬は初めてANAのヤンゴン直行便。往路は約7時間。自宅から車で10分の神奈中バス停から成田空港まで2時間余。乗り換えなしで便利・快適。成田空港は世界中に飛び立つ人々で相変わらず大混雑。昨年9月の訪亜以来、6ヵ月ぶりの空港ですが、毎回「不安と期待の旅情」を掻きたてられます。(成田空港にて)


 
40年振りの再会・山田さんと
40年振りの再会  (2014/07/15)

【7月6日】 ミャンマー在住・在勤17年のソニーOBより一通のメールが届きました。“山田哲夫さんという方を覚えていますか?ソニーの人ではありませんが自分で起業して、今はBMCという会社で発展途上国の政府の収入改善に役に立つキャッシュ レジスターを開発、アフリカを中心に各国政府に脱税防止に役に立つということで注目を集めているビジネスモデルです。先日、NHKでこの人の活動を追った番組があり、それをみていて、これぞミャンマーの国に役に立つものだと思いメール、コンタクトして結果が、今日につながり、山田さんがヤンゴンにお見えになりました。例のHappyでシャン ヌードルを食べミャンマー ビールを飲んで歓談していたのですが、アフリカの話に及んだ時、突然、肥後さんの名前がでてきました。なんでも、ガーナ、ナイジェリア(?)で会ったことがあるとか? その後、もう何十年もお会いしていないそうですが、私が知っているということを聞いて懐かしがっていましたから、是非、連絡とってみおてください。7/6郡拝

【7月6日】 即、山田 哲夫にメールを出しました。“お名前やお顔は忘却の彼方で定かありませんが、約40年前、西アフリカで一緒だったのをかすかに覚えています。(厳しい環境下、よく働き、よく遊んだ時代でした!)ミャンマーで郡さんと会い、思い出して頂いたのは奇遇、御縁です。とても重要なお仕事をされているようで大変興味深いです。アルゼンチンで懇意になった企業は、キャッシュレジスターを製造販売しており、私はアジア・日本レップをしています。なにか、協業・協力できることがあればお願いたします。詳細は、当社hp、リンクをご笑覧下さい。取り急ぎご挨拶まで。”7/6肥後拝

【7月7日】 早速、山田さんから返信がありました。“肥後さんご無沙汰致しております。アビジャン、ラゴスと飛び回っていた時代ですね。その節は 公私にわたり 大変 お世話になったのを 覚えております。何故か 最近またあの辺を 巡っているせいか、貴兄のお顔が 鮮明に夢に出てきます。話の成り行きで 郡さんに肥後さんのお話をしたら 良くご存知との事で世間は 広いようで 狭いな~とつくづく実感しました。10日には 日本に帰ります。1週間に1度は 東京に出ていますので、是非 ご都合の良い時に お会いさせて頂きたいです。相模原でも寄せて頂きます。

またアルゼンチンに行っておられたとか!! 弊社はNCR Argentine と OEMで20年近くレジを供給しておりました。是非次回お会いするときに お話させて頂きたいです。次回 お会いするのを 楽しみ!!山田哲夫拝

【7月11日】 郡さんからのメール “肥後さん、やはり山田さんとはお知り合いでしたか? アフリカの友ですね? 山田さんの口から肥後さんの名前が出て来た時はビックリしましたが、世の中、狭いですね、悪い事はできませんね。山田さんは、もうお帰りになりましたが、東京には足繁くおいでのようですから、東京で一杯やれるといいのですが、肥後さんは2日から14日まで南米講演ですか? 私は30日から15日まで一時帰国の予定ですが、31日は予定アリ、30日(土)の夜か1日(月)の夜ならば空いていますが、お二人の都合は如何でしょうか?7/11郡拝復

【7月15日】 念願の40年振りの再会を果たしました。“山田 さん、ご多忙のことと拝察しています。明日(7/15火)17時、東京駅八重洲北口改札口前にてお待ちしています。万一の場合は、下記携帯電話にお願い致します。7/14肥後拝
追伸:目印・白のパナマ帽、口髭付き。

【7月16日】 再会後の山田さんからのメールです。“肥後さん昨晩は 本当に 短い時間でしたが、40年の時間が ぶっ飛んだ感じでした。お元気で ご活躍 大変うれしく思います。元気を頂きました。有難うございました。今後とも いろいろご相談申し上げる事も多だ あるかと思いますが、宜しくお願い申し上げます” 山田哲夫拝

【7月17日】当時、南アフリカ駐在、山田さんとお付き合いがあった元ソニーの阿部俊彦 さんにメールしました。暑い日が続いていますが、その後お変わりなくお過ごしのことと存じます。大変ご無沙汰しております。
さて、奇跡?が起こりました。40年前、阿国駐在中,アクラ、アビジョアンにて公私に大変お世話になった元「ダイワ物産」山田哲夫さんと先日夢のような再会を果たしました。実は、ミャンマーにて在住在勤の元S社OBとの面談時、私の所在が解かったそうで、早速、コンタクトした次第です。 阿国から帰国後27歳で起業,早くからハイテックに着目、現在、国と国の大きなスケールの仕事に従事、大活躍をしています。近々、アフリカに長期出張とのことです。短い時間の再会でしたが、40年振りとは思えない、親近感、温和さを感じました。くれぐれも阿部さんによろしくとの伝言でした。同社の詳細は下記HPを閲覧下さい。

【7月18日】 阿部さんからの返信メールです。“山田哲夫さんのことは良く覚えております。南アの大和物産で出来る人ながら少々難しい上司にそつなく仕えておられ、上司の商売方法を学び取ったように評判されていました。そして独立して、MBCという商社を開設して電卓などを主力に拡販し、成功したと聞いておりました。添付の写真ではその当時のスリムな紅顔の青年の面影がさやかではありませんが、立派な経営者のお顔ですね。MBCも社歴40年を超えて、年商20億以上とあれば立派な成功者です。折角肥後さんのご紹介を頂いたのですから、そのうち山田さんに連絡を取って見ます。有難うございました。結構世の中狭いものですね”  阿部俊彦



自宅のプールから
見る太平洋








 住民を大切にする豪州行政  (2013/01/24)

 つい、最近 わが家前道路脇に植えてあった老木が朝6時頃、突然大きな音を立て倒れた。高さ5m程度のどうという事のない普通の木だが、道路一杯に枝木が散らばり、車などの通行の邪魔になるので困ったなあ~・・・・と。すぐ隣の奥さん(大学の先生)がCity Councilへ電話(緊急の番号がある)、それから30分もしない間に大型のトラックが来て、アッと言う間に片付けて行った。根っこが残っていたので、これどうするのか?と・・・・それから1時間後くらいに別の車が電動のこぎりとショベルカーと共にやってきて、根っこごと根こそぎ掘り起こし、きれいにして行った。車にはGreen Tree Surgery との文字が書かれていた。そして翌日早くも小さな木が植わっていた。

 ビックリしたのはその処置の速さと適切な処理、日本の区役所みたいな(東京都清掃局みたいな組織?)、いわば 田舎の町役場みたいな所(の車と人)がやって来て、これをアッという間に片ずける。これこそ住民を大切にする行政の仕事だと思う。どうという変哲もない話しだがここに"生き生きした行政の仕事振りと納税者を大切にする市役所"の態度がみえる。これが日本だったらどうだろうか?と。

追伸:晴天日には 毎朝6時頃(季節により当然変るが)高台-海面から50m程度-に位置するわが家から南太平洋、水平線から 昇ってくる 太陽が拝めます。当地は冬になり 朝晩10℃前後、日中は20~25℃位まで 温度上昇します。 ゴルフには 快適な気候。 もうじき猛暑がやってくる日本列島、どうぞ お元気で !

豪ヒマ人 より

 
幻のドラード釣り











 人生最悪の日 ~散々なコリエンテス訪問~  (2010/02/07)

映画や小説ではよく出てくる言葉;「今日は人生最悪の日だ!」というセリフが、まさか、自分に当てはまるとは夢にも思ってもいませんでした。事の発端は、そもそもの訪問目的であったコリエンテス市でのカーニバル見学が実は1週間後の開催であったこと。コリテンス在住の招待者が去年の開催日を連絡してきたのです。
 次は深夜バスの終着駅・コリエンテスではなく、一つ手前のエステンシア駅で降りてしまい、タクシーで当市まで行く羽目になったこと。最後は、最初と最後のチャレンジとなるはずだったドラード(15kg前後の巨大魚)釣りが釣り場目前で豪雨に遭い中止になったことです
コリエンテス市は、コルドバ市より北東約800km、深夜バスで11時間(以前は運航していた航空便が廃止となり現在はバス便のみ。バス代6800円相当)のところにあります。まさに、民族の大移動・大旅行でした。


 本訪問は日程的に日本一時帰国のすぐあとで疲れのピーク、体力・思考が著しく低下している期間でした。よって、当初より多少の心配と不安は持っていましたが、一方、非常に楽しみにしていたイベントでもありました。
ことごとくしくじり、まあ、これだけ失敗と不運が重なった稀有なトラブルとして、一生忘れられない記憶・記録として残るでしょう。ただ、当市滞在中の同期SV・夫妻との久々の再会と温かく、親身の歓迎ぶり、自然・緑豊かな風景におおいに癒されました。

 夏季休暇最後となる次のアスンシオン、パラグアイ訪問(南米最後の処女地)に起死回生の挽回を期待したいところです。(TH記)

 
波荒いギニア湾








 古き良きガーナの想い出 (2006/04/01) 

帰国日の搭乗時間までの空てる間を利用して、アクラ市からほど近い海岸に行きました。ギニア湾の荒れた波、どこまでも続く砂浜、港や店も食堂もなく、ただ、大勢のアクラッ子が無料の砂浜でサッカーに興じているのは昔と同じでした。

 海岸に来た時、35年前の出来事をふと思い出しました。初めてアクラに出張にきて、やることも、行くところもなく海岸に来てのんびりしていた時、突然、妙齢の日本女性から、“日本の方ですか?”と尋ねられ、そうだと答えると、すぐ近くに住む家主が、お招きしたいというありがたい話でした。言葉に甘えてついていくと、入り口に大きな冷蔵庫があり、沢山の日本人が冷えたビールやコーラを飲みながら談笑していました。聞けば在ガーナ日本人のたまり場とのこと。そこで、アフリカ生活の長い長老より、「アフリカの水の話(一度飲むと再び訪れる)」、「食パンとビールでの漬物の作り方」などアフリカ生活の知恵を教わりました。

 そして、或る時、家主より“急にS社のレコードプレイヤーがならなくなったので、診て欲しい”と依頼され、中を開けたらびっくり。なんとねずみが木箱に穴開け巣を作り、ワイヤーを食いちぎり、おまけに数匹の子ねずみが眠っているではありませんか。(原因がわかり、無事修理でき喜ばれました)。そのあと、アクラ出張のたびにお邪魔し、貴重な日本のつまみや料理をご馳走になりました。「地獄で仏」というのはこういうことを云うのでしょう。長い年月が経ち、そこに在った家、会った日本人など記憶はなく、まったくわからなくなってしまいましたが、遠い異国で受けた温かいもてなしと親切は一生の思い出です。 ただ、私のような同じような経験は当時のS社海外営業部スタッフなら一つや二つは持っていると思います。そんな体験現地に即した商品開発、マーケテイング、アフターサービスなどができたのがS社の強みだったのも事実です。TH記 


    ソニーチリ・社長秘書と                      

 南米の『3C』 ~チリの美女~ (2010/11/26)

 『3C』という言葉をご存じでしょうか。ラテンアメリカを知っている人は、すぐお分かりと思いますが、美女の多い国、チリ、コスタリカ、コロンビアのことです。今回のチリ訪問で、その一端を証明するチリ美女とのツーショット写真撮影の幸運を得ましたのでご紹介します。いずれも弾けるような笑顔が素敵、愛想がいい、自信に溢れている、親日家が多いなど共通点がありました。数年前、日本の公務員がチリ女性に数億円貢いだ事件がありましたが、きっと、彼もこの笑顔と親しみやすさに抵抗できなかったのではないでしょうか。

 ただ、私の独断と偏見ですが、美形、はツとする美人が多い、スタイル、ファッションのよさなどはアルゼンチの女性の方
遥かに多いと感じます。反面、当国女性は、チリ女性に比し、お高くとまっている、冷たい、近寄りにくいなどがあります。今やチリと大きく差をつけられた亜国。その経済力・所得差、グローバル国家等などビジネス界でのチリ女性の果たす役割の差のような気もします。おわり
 TH記




かつらをつけたアフリカ美人
(記事とは無関係)





































 














 遥かなるアフリカの大地より  (2005/05/15 HY氏提供)

以前、投稿していただいた旧い文ですが、今読んでも面白いのでアップしました。

「アフリカ」と言えば、皆さんは何を想像されるでしょうか。 もし、「黒人、ジャングル、猛獣」と答える人が居たとしたら、それは外国人が日本を「フジヤマ、サクラ、ゲイシャガールの国」と言うのと同じと考えて良いでしょう。

アフリカと言っても、東西南北中央では夫々違います。北はオスマントルコの時代からアラブの影響を受け、大半がイスラム文化圏です。 南は今や白人が減り、アフリカンが中心となり、様変わりしたかも知れませんが、元はと言えば、英・蘭及びユダヤ系の移民が多く、リトル・ヨーロッパの様相を呈しています。

東は気候や自然に恵まれて観光化していますが、西は海岸は湿地帯が多く、奥地に行くと砂漠があり、気候も厳しく、人間が住むには余り適さない土地です。 但し、石油やタンタライト(携帯電話に使われる希少金属)などの資源が埋蔵されています。 中央は資源はありますが、開発が遅れ、部族間の抗争があり、政治的に安定していない国が多いです

さて、「アフリカに人口密度が東京並み、車の渋滞は大阪並みの町がある。」と言えば、皆さんには信じて戴けないでしょうが、実際にあるのです。 それがナイジェリアの元首都ラゴスなのです。何処からこんなにたくさんの人と車とが湧いて出て来るのかと思うくらい混雑します。

「灼熱の地獄より」のタイトルは余りにも惨い面を強調し過ぎではないか、とのご意見があり、今回からは「遥かなるアフリカの大地より」として見ました。しかしながら、もし、アフリカにロマンを求めるとすれば、西ではなく、北か東か中央の地でしょう。

もっと面白い話は無いのかとのご要望に応え、かなり品が落ちますが、当地にもナイトクラブと称するものが三軒ばかりあります。通常の民家を改造したものであり、いずれも私どもの寝泊りしている所から程遠くない住宅街の一角にありますが、夜間の外出は危険を伴いますので、運転手付の車で行くことにしています。

音楽がガンガンと鳴り響き、男の客は国際色豊かですが、女の方はアフリカンのみです。女も入場料を払って入りますが、殆どがプロであり、私たち外国人を見つけると、彼女らの方から近づいて来てドリンクをネダリます。それを無視して、飲んでいると、「ケチ」とか「イケ好かない野郎」とか捨て台詞を残して去って行きますが、又、別の女性が直ぐにやって来て、横へ座ろうとします。

女たちは殆どがセクシーな服装ですが、ミニの下はノー○○との噂があり、一度検証して見ることにしました。 検証方法は憚れますので省略しますが、驚いたことに本当でした。 それまでは、室内の暗さと彼女らの肌の色が黒いので、全く気がつきませんでしたが、彼女らはそのままの姿で椅子やソファーに腰掛けるので不潔なこと極まりなしです。

10年前には空港近くのナイトクラブにフィリッピンやロシアの女が居るとの話でしたが、夜間の外出は危険が伴うので、一度も行ったことはありません。唯、一度、日曜の朝に対岸のビーチへ遊びに行こうと波止場で渡し舟を待っていると、フィリッピン人の若い女の子が2人やって来て、私を日本人と見ると、話し掛けて来ました。

するとその時、某社の2人が波止場のビルの2階の窓からこちらに手を振って呉れたので、私も手を振り返したら、女の子たちも手を振るので、「エッ」と驚いたら「アノヒトタチ、オキャクサン。」だと言う。後日談だが、向うは私が年甲斐もなく、ナイトクラブの女の子を連れ出して遊びに行きよると思ったとか。

対岸のビーチは綺麗で泳げますが、白人の若い女性は少なく、目の保養にはなりません。それが目的なら空港近くのシェラトンホテルへ行けば、航空会社の Crew  が泊まっており、プールサイドは華やかですが、宿泊客以外は入れません。私たちの居住区にもエコー・メリディアンと言う大きなホテルがあり、こちらは会員制のプールがありますが、私たちのコンパウンドにも小さなプールがありますので、行くことはありません。

では、ナイジェリア人の娯楽は何か?一番はサッカーでしょう。ナイジェリアの強さは良く知られて居ますが、ナショナルチームのメンバーの大半がヨーロッパ・リーグの選手です。ところが、彼らは自分たちの利益を優先しますので、ナショナルチームへの参加は喜ばす、怪我をしない程度にプレーしますので、余り良い結果は得られません。

金曜日のオフィスは女性陣が民族衣装で着飾り、さながらファッションショーのようです。朝から浮き足立って仕事は手に就きません。週末は何処からか、音楽が大きく鳴り響き、あちこちで踊り狂っています。彼らの貧しくとも明るさを失わないのは、我々日本人も見習うべきことでしょう。  
ナイジェリアにて 

 
アルゼンチン国旗と
同期SVと









































 アルゼンチンで困ったこと(2004/10/13)

 「パタゴニア観光振興」という任務により、今年4月に地球の裏側ブエノスアイレスに着任して5ヶ月が経過した、JICA・SV(シニア・ボランテイア)のM氏のご好意により、JICAメルマガに掲載された日本では考えられないような光景や習慣に遭
遇したエピソード・「地球の裏側で困っています」という記事を共著という形で書きました


 まず、こちらの習慣である「アブラソ(抱擁)」。妙齢のセニョリータとならば未だしも、男性同士も抱き合ってキスをする習慣は私は苦手です。しかしこれをクリアしないと仲間とは認められないため、ヒゲ面のテニス仲間の男たちと、何とか息を止めて行うように努力していました。

 時間にルーズなのも困ります。こちらの人の性格を表す言葉に「Primero Yo(まず自分)」というのがあります。ある時、配属機関・INTI(国立工業技術院)の本部・全国支部からロサリオに参集、「コンフェレンス」が開催されました。まず肝心の司会が「レストランが込んでいた」等の理由により1時間半の遅刻。支部の代表も、遠方から来るという言い訳があるにせよ、ポツポツと途中参加。新たな遅刻者が現れるたびに、全員とのUn Beso(キス)が繰り返され、会議が中断します。更に自分の言いたい事だけを喋り捲って「家族との予定があるから」と退席する人もいました。

 さらにひどいのは、自分の持ち時間20分を3倍の60分も発表する人や大幅に時間オーバーする人が後を絶たず、遠方から高い交通費と時間をかけて、かなりの日時を準備に費やしてきた人たち、数人が結局遅れに遅れ発表できない事態となりました。後日、所長に「会議の感想はどうだった?」と聞かれたので、『司会者がまったく時間をコントロールできない、発表者は過去の話だけで将来計画がない、会の結論・方向付けがない、コンフェレンスの態をなしていない』等など日本では考えられないと感想を述べたところ、是非、リポートにしてくれ、社長に提出したいというので、書いて出しました。しかし、その後、改善された様子はみえませんでした。

 煙草を吸う人の話では、100円ライターの品質がものすごく悪いそうです。全てではないと信じますが、この国の工業製品QCの一端が窺えます。0.5ペソ(約20円)と安いのですが、オイルを半分以上残したままで、大半は着火部分の不具合により廃棄。結果的には日本より高くつくそうです。

また、練り歯磨き粉もしかり、数本同様な不良品と遭遇しました。使っていくうちにプラスチック部分の出口根元が破れ、両方から出る始末です。日本なら全て回収、ひいては不買運動、企業イメージを損ね経営不振になるところです。現地スタッフに不良サンプルをみせると、「ブラジル製だ。ふたを閉め、脇から出し使えばいい。」との答え。この感覚がある限り、とても世界に伍して発展することは難しいと感じました。

 交通マナーの悪さも尋常ではありません。「直進する車の左から強引に右折する」、「ウインカーを右に点滅、左に曲がる」くらいは日常茶飯事です。横断歩道を渡っていても、特にタクシーやバスは、人を標的に突っ込んできます。2重3重駐車も当たり前、警笛も鳴らす為の道具とばかりに頻繁に使います。せめて夜中の2時には止めて欲しいものです。サッカーのボカやリーベルのインチャ(熱狂的ファン)が試合後に、車の窓から身を乗り出して、国旗やクラブ旗を振り回しながら、近くのバンデラス広場を疾走していました。最初は暴走族と信じていました。

 それから犬の糞。アルゼンチンでは世界中の犬の種類を見ることが出来ます。一方、こちらの愛犬家のマナーは極めて悪く、日本的に「処理用の小道具」を持って散歩する人は少なく、舗道の5m間隔に大きいモノがトグロを巻いています。市内ではアパート住まいが基本のせいか、犬の排泄のための散歩と理解することもできます。先日も、糞を避けようとした婦人が倒れて、別の糞に手をつくという大惨事を目の前で目撃しました。あるSVは散歩に行っても糞を踏まないように下ばかり見て歩いており、景色をまったく楽しめないと歎いていました。

 今回でアルゼンチン訪問は、5回目、滞在年数は延べ3年ぐらいになるでしょうか。私の仕事の当国基幹産業である中小企業を活性化することにより、ここの人たちの生活向上を願って止みません。あと5回訪問予定で、今後もいろいろ困ることはありますが、人一倍この国に愛着を抱き、この異文化体験を半ば諦めたり、楽しんだりしていこうと考えています。

 

スナイパー通り
弾痕の跡が生々しい(ともたびブログより)






















 ボスニア・ヘルツエゴビナ  ”内戦とは!~恐怖のスナイパー~” ある市民とのインタビューより
(2001/06/09)

 滞在中に、中年女性のジャーナリストと友達となった。彼女はジャーナリスト歴20年のインテリーで、つい最近、サラエボの ラジオ局に再就職した。彼女が、バニャア・ルカに滞在時、前から関心があった、「ボスニア内戦・いち市民の立場」からの感想を聞いてみた。以下はそのインタビューをまとめたものである。内戦は、199246日に始まり,19951227日に終わった。(正確に月日まで覚えているのが,いかにもジャーナリストらしい)。モスレム人,セルビア人とクロアチア人との争いだった。主な原因は、経済,宗教,政策の格差・違いによる戦争だった。内戦による難民・避難民は220万人,死者は、20万人、特に19~22歳の若い兵士が、バニャア・ルカでは、13,000人,サラエボでは、100,000人だった。

 内戦中、電気、水、食料は少ししか供給されず、電気は日に1~2時間、ランチと夕食時のみ供給された。それ以外はロウソクを使った。(現在でも、当時を思い出させるためか、時々停電があった。) 当時、砂糖は1kg 100DM(1DMは約50円)、現在は1DMである。約4年間,音楽はおろか、情報が入らず世界情勢が全く分からなかった。 当時、本人はかなり裕福でサラエボに大きな部屋のマンションとベンツを持っていたが、ある日、5人の武装兵士が来てベンツやパソコンを持っていかれた。逆らったら殺されるので仕方がなかった。少し有名や金持ちの人が同じ目に遭い、逆らって殺された人たちは、約7、000人もいた。

 隣のマンションに住んでいた友人宅に、セルビア人がきて、“武器はないか”と尋ねられ、“ない”と答えると,狙撃兵に狙わせる為、7階の窓から体をさらけ出された。しかし、幸い何も起こらなかった。その後,友人は警察に連れて行かれひどい拷問をされ、体中に青いアザだらけで帰ってきたが、数週間後それが元で死亡した。彼女が住んでいた橋の近くで狙撃兵に撃たれたが、幸運にも髪の毛をかすっただけだった。約15分間、撃たれ続けたがじっと道路に横たわり助かった。その橋では、200名が殺された。狙撃兵は、サラエボだけでも5,000人以上は殺しただろうという。子供はカナダに留学させており無事で、現在もカナダに住んでいる。

 また、負傷兵士用輸血だといわれ、狙撃兵や爆弾が飛び交う道路、また汚い非衛生的な方法で採血されたこともあった。逆らったら殺されるので、従ったが怖かった。4年間は、みなパニック、孤独でひどい状態だった。サラエボは、ドイツの捕虜収容所;アシュビッツみたいだったという。自国が焦土となる中,本人も何度も死ぬかと観念して修羅場をくぐってきた人だけに、迫力と説得力があった。本人も当時を思い出してきたのか、話をしているうちに、段々エキサイトしてきた。

 我々日本人や外国人から見ると、朝から野外コーヒーショップでビールやコーヒーを飲んで、少し仕事をしてすぐコーヒーを飲みに行こうという現地の人々を、「バルカン・スタイル(Leisurelyゆっくり、のんびり)」という。(彼ら自身でも公言し、認識しているが、)。上述のようなひどい内戦を経験し、自由に出かけたり、飲めなかった時代を知っている人々だからこそ、今の幸せ・自由がより貴重で、大切にしているのかもしれない。(おわり) TH記

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