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(ソニー時代の筆者)
ソニー株式会社に34年間、お世話になりました。今日、生涯現役、終身学習として活躍できているのは、ひとえに最も輝いていた当時の先輩、同僚、後輩との仕事に生活に切磋琢磨した経験・ 学習の賜物です。いまだに、OBとは日々連絡を取り合っています。その時、必ず当時は”こうだった、あーだった”と参考資料・データが添付されてきます。それはいまだに充分通用する、むしろ今こそ必要と思われる情報ではないかと思います。貴重な情報・データを風化・風解させるのはあまりにも惜しい、残しておくべきではないか。次の世代に伝えるのは我々OBの義務・責任と思い、ソニーに関する過去・現在・未来を本欄に掲載することにしました。また、最新の情報も逐次追加補足します。












































 
 「銀座ソニービル」が教えるソニーの過去と現在、そして未来
                                          
                                            (プレジデント2017/2/11)

 ソニーは東京・数寄屋橋交差点角にあるソニービル(中央区銀座5-3-1)50年ぶりに全面的に建て替える。現在のビルが存在するのは今年の3月末まで。それ以降、立て替えのための取り組み、銀座ソニーパークプロジェクトが本格的に始動するという。現ソニービル解体前のカウントダウンイベントとして昨年1112日から212日までの3ヵ月間にわたりIt's a Sony Part-1を開催。同展終了後22日から3月末まではPart-2が企画されている。

 このプロジェクトの第1期は2018年から2020年、東京オリンピックまでの約3年間。この間、現在のビルを解体したあとの700平方メートル(210)あまりの土地を、公園にして、誰もが過ごせる空間として運営する。その公園の名称は「銀座ソニーパーク」になるという。2期は2022年以降。ソニーパークを運営しながら新ソニービルの構想を練り固めたのち2020年秋に着工、同22年秋に営業開始の予定。

 なぜ建て替えるのか?その背景を探るには、現ソニービル誕生の経緯にまでさかのぼるのが早道だろう。


 今のソニービルが開業したのは東京オリンピックが開催された2年後の1966429日。その建設費は32億円。当時のソニーの資本金に匹敵する金額であり、それだけに同社にとっては失敗の許されない一大プロジェクトだった。地上8階、延べ床面積8811平方メートル(2600)のビルの大半にショールームの機能を持たせた、当時の日本としてはまさに前例のない試みだった。土一升金一升とまで言われる高価な土地に、なんと企業一社で、売り上げを見込めない、つまり利益とは無縁の単なるショールームをつくった、ということで大いに世間の注目を集めたものだった。

 開業から2日後の51日付け日本経済新聞朝刊に、盛田昭夫がこのことに触れた文を寄稿している。
「……このビルの建設について、手放しで喜んでいいのかどうか、いまだに悩む点が無きにしもあらず、である。そのひとつは、電気の専業メーカーであることをモットーとしてきたわれわれが、日本で一番値の高い土地(中略)、そんなぜいたくな所にビルなどを建てること自体正しいのかどうか……」

 さすがの盛田にも一抹の不安があったようだ。しかし、その半面で盛田にはそれなりの自信もあったと思われる。なぜなら、ソニーはその4年前の19629月に、ニューヨークの一等地五番街の一角に、170平方メートル(50)ほどのショールームを開設し、大成功をおさめていたからだ。開業に合わせるように売り出した、当時世界初の5型という小さなトランジスタテレビ(TV5-303・日本国内価格65000円。ちなみに当時の国家公務員初任給15700)がいわば“目玉”となり、連日多くの人が押し寄せた。その盛況ぶりから日本では『五番街の日章旗』(講談社)というノンフィクションまで出版されている。

まだまだ戦後からの復興途上にあった極東の国の、それも小さなエレクトロニクス企業のニューヨーク“進出”は、ソニーのブランド戦略上何ものにも代え難い強力な武器になった。

■ソニービル、開業50周年の決断

 五番街のショールームに勢いを得ていたとはいえ、ソニービルの建設にあたって盛田をはじめ関係者を悩ませたのは、ビル全体のショールームというものをどのように仕上げるのか、その基本的な構想だった。盛田はニューヨークにあるグッゲンハイム美術館にそのヒントを求める。同美術館のフロアがらせん状になっているため、来訪者は最上階から鑑賞を始めるとそのまま1階にまで行き着く。そこで盛田が思いついた構想が「タテのプロムナード」だった、と前述の寄稿文で明かしている。人が歩き回る歩道を水平ではなく、垂直に展開することで、狭小な土地を最大限に活用する、という斬新なアイデアだった。当時設計を依頼されていた芦原義信氏は、この構想を受けて花びら構造のフロアを考案する。

 こうして当時としては構想、構造ともに画期的なショールームビルが完成したのだった。
昨年、このソニービルは開業50周年を迎えた。その半世紀の間にこのソニービルを取り巻く環境が大きく変化。第一にソニー自体がかつてのような“電気の専業メーカー”から大きく脱皮して、金融、娯楽のビジネスも手がける世界的な企業に成長した。ソニービルそのものについても、独創的だった花びら構造のフロアが法律に適合しなくなると同時に、バリアフリーという社会の要請にも、物理的に応えられなくなってきた。こうした状況のもと、ソニーのCEO兼社長・平井一夫はソニービルに思い切った変化を与えることにしたという。ソニー自体も創業70年という節目であったことも平井の背中を押した。

 ■その変化とは何か?  何であるべきか? 

 そこで、今から4年前2013年の春、平井は号令をかける。これが銀座ソニーパークプロジェクト発足のきっかけになった。このプロジェクトのリーダーには永野大輔が指名される。2012年、平井が副社長になったときからの直属のスタッフで、肩書はCEO室シニアマネジャー、コミュニケーション・クリエイティブ担当。永野は言う。

 「ソニービルに変化を、という場合、考えられる選択肢はふたつ、改装かそれとも建て替えか、です。今のソニーは単なるエレクトロニクスの企業ではなくなっており、このエレクトロニクスとともに、娯楽、金融も含めた三本柱を持つ経営体になっています。これらを統合した発信基地の機能をこれからのソニービルは持つ必要があるのではないか。そうだとすれば、今のソニービルでこの要求を満たすのは困難、言い換えれば、器ではなくなっている、と判断しました」
 したがって、彼らの結論は改装ではなく建て替えとなった。それでは、どのようにソニービルを生まれ変わらせるのか? 

 その答えを求めてプロジェクトのスタッフは、原点回帰をする。その試みの過程で、プロジェクトチームはソニービルを企画した当時の盛田の構想にあたったという。そこで彼らが出会ったのは、「盛田の“銀座に恩返しし、銀座の街に開かれた空間にする”という思い」だったと永野は明かしている。


 ■“新しい公園をつくる”という思想

 当時、盛田はそうした“開かれた空間”として敷地の一角にソニースクウェアという名称の“銀座の庭”をつくったのだ。わずか10坪ほどの小さなスペースだったにもかかわらず、銀座ならではのイベントを次々に生み出して話題をつくりだし、ことあるごとに新聞の社会面を飾ってもいた。この“銀座の庭”の発想を公園にまで発展させる。これこそがソニーパークのアイデアを生み出すヒントになったという。2014年秋のことだ。

 ソニービルの立地は、東京という都市空間の中でもとりわけ、人の移動に関して恵まれている、というのが永野の見方だ。具体的には、東西に走る晴海通りと南北の外堀通りという2本の幹線道路の交差点にあり、しかも地下には地下鉄が絡んでいる。同ビルの地下2階の入り口から地下鉄・銀座駅の改札口まで歩いて100歩以下という至近距離。実はこの恵まれた立地を公共的な観点から活かすことを、50年前の設計でチャレンジしていることに永野は気づいたのだという。

 「当時のビル構想・設計のこうした柔軟さを発展させる、そのためにはよりオープンな議論や作業を経て銀座でしか実現できないことをしようということです。その手始めが公園で、この発想は新しいビル建設でも継続することによって、ビルの中にも反映させます」

 つまり、“新しい公園をつくる”という思想を新しいビルの構想を練り上げるときの礎にする、というのが銀座ソニーパークプロジェクトの姿勢になっていると言える。つまり、新しいビルの中も外も、その空間を人の流れという観点からは連続したものとして立体的総合的にとらえる、ということだろう。これはまさに、盛田の打ち出した「タテのプロムナード」を発展させた概念となる。こうすることによって、新しいビルは銀座という空間の中で立体的有機的にその一部となり、人々を魅了するものに進化発展し、しかも盛田の思想を発展継承することにつながると思われる。

 だからこそ、プロジェクトチームは新しい公園を構想する過程そのものを広く世の中にオープンにするべきであり、そうすることで、新しいビルが人々にとってより魅力のあるものになると考えているようだ。

 この観点からすれば、新しいソニービルの建設はすでに始まっている。ビル建築が単に建築する主体・企業とその周辺だけの発想によって行われるのではなく、広く世の中にそのための智恵や知見などを求める、そしてそれらを集積させる過程をオープンに共有することもビル建築の重要な要素であることを、彼らは示そうとしている。

 つまりそれは、ビルを建築する主体と基本的アイデアの主はソニーであっても、その創作プロセスそのものを他の人や組織もかかわれるオープンな環境にすることによって、従来にはない“都市の公共的建築物創造の革新”が生まれる可能性だ。単なる“箱もの”的な建築物ではなく、銀座という地域にふさわしい公共的空間とは何か?  の答えのひとつがそこからは生まれてくるはずだ。
 永野はこんなことも言っている。

 「50年前の現在のソニービルは、ソニーの現状の姿からは大きく乖離してしまっています。50年先にソニーがどんな姿になっているかわかりませんが、新しいビルには、その乖離ができるだけ少なくなるようにしたいと思っています」

■ビルが示したソニーの過去・現在と未来

 今、ソニービルでは、これまでのソニー製品70年、ソニービル50年の歴史を振り返るIt's a Sony展が開催されている。昨年11月12日から開催されたPart-1は製品の歩みがテーマだ。1階から階上に向かって年代別に製品が展示されている。そしてその最後にはソニーパーク構想が示され、来場者に今後のソニーに対する理解を求める展示構成になっている。そこには言うまでもなく、ソニーの過去・現在と未来との継続性を訴える意図がある。

 このPart-1は1月24日までの73日間で、75万人の来場者を記録したという。ただ、この展示をながめながら改めてひとつ気がついたことがある。

 展示された製品のひとつひとつを食い入るようにながめている多くの来場者の姿を見るにつけ、今さらながらに、独創的な製品の持っている人を惹きつける“力”の効果を思い知らされる、ということだ。そうした独創的な力を持った製品を継続的に生み出すことが、そのメーカーの力として蓄積される。ソニーはそうした企業の一社だろう。逆説的に表現すれば、ショールームという物理的な空間があるという単純な理由でここに人が訪れるのではない。自分たちを魅了してくれる製品を目当てに集まるのだ。

 その典型的な例が、1962年のニューヨーク五番街のショールームだ。彼らのお目当ては5インチという小型のポータブルテレビという世界初の製品だった。ソニービルの場合で言えば、開業2年後に発売されたトリニトロンカラーテレビであり、あるいは初の家庭用VTRベータマックス(1975年)であり、ウォークマン(1979年)などソニーから次々に繰り出される独創的な製品の数々だった。Part-1の来場者75万人もこうした過去と無縁ではないだろう。

 確かに、ソニーは娯楽と金融の分野を加え経営的に三本の柱を持ってはいる。とはいえ、あえて偏見を交えて言えば、もし、“ソニーらしい”独創的な製品に数寄屋橋交差点の角でお目にかかれないと思われてしまえば、ソニーがつくりだそうと計画している独創的な空間が持つ魅力は大幅に衰えてしまうことだけは間違いないだろう。永野は言う。

 「ソニービルが最終目的地である必要はないんです。通り道でも構いません。しかし人々に“行ってみたい”と思わせるところであり続けたいのです」

 そのためには、銀座という公共の空間と渾然一体となり、新しいソニービルと銀座の双方が相乗効果を発揮してその魅力で人々を惹きつけなければならない。したがって、ソニービルとして忘れてはならないのは、ソニーの出自はあくまで独創的製品を生み出すメーカーであり、この軸をはずして新しいソニービルの魅力は生まれない、ということではないか。逆にそれが現実に貫かれれば、まさにソニーらしい空間が2022年に数寄屋橋交差点の角に生まれることになるのではないか。

 その意味で、新しいソニービルの構想が具体化していくそのオープンなプロセスが“都市の公共的建築物創造の革新”になれば、それこそがこれから先50年間にわたるソニーの生きざまの原点となるだろう。その意味で、このソニービルプロジェクトの成否は、今後のソニーの経営や製品開発に大きくかかわっている。(文中敬称略)
ジャーナリスト 宮本喜一=文・写真

http://tk.ismcdn.jp/mwimgs/2/1/360/img_215d1385bcd4287fb0e7019ad215abb5242900.jpg  「昔のソニー」をありがたがる風潮への違和感
古くて大きな会社に求められる役割を問う

経営共創基盤CEO・冨山和彦氏

ラ社会の見えない圧力に負け、リーダーが中途半端な決断をしてしまう――。日本ではそういうことがよく起こる。著書『有名企業からの脱出 あなたの仕事人生が“手遅れ”になる前に』を上梓した経営共創基盤CEOの冨山和彦氏が世間を騒がせたニュースから、本質を読み解く短期集中連載。第2回は「昔のソニー」をありがたがる風潮に異論を唱える。

ムラ社会企業の経営

OBがソニーにモノ申す、という長期連載が以前、有名ウェブサイトで展開されていました。アクセスをたくさん集めて人気を博していたようでしたが、とても見られたものではありませんでした。“ソニーらしさ”とは、いったい何なのか。この人たちの言うとおりにやったら、ソニーはつぶれていたと思いました。

しかし、日本の大企業の多くが、これをリアルにやられている、というのが実情でしょう。日本企業は、相変わらずの共同体幻想の中に生きています。ムラ社会の調和、ムラ社会で適用しているルール、あるいはその空気に同調する圧力、精神的な依存……。これが、経営にも大きな影響を与える。実際、ムラ社会の社長が恐れるのは、波風が立ってしまうことです。社内闘争が起きること、社内の和が乱れることを恐れる。

共同体の中に調和が存在することが、すべてに優先してしまう。だから、経営判断や経営行動の意思決定には、共同体の和を壊さないという暗黙の前提がある。その中で戦略行動を取ろうとしてしまうのが、ムラ社会企業の経営なのです。

だから、戦略的選択肢は狭くなる。「聖域なし」などと言いながら、実際には「聖域だらけ」になる。今でもそれは変わりません。結局、経営者がそこに手を突っ込むことで、自分の社内の政治力を消費してしまうことを恐れるのです。下手をすると、自分の地位も危うくなるから。

大企業の経営トップは、「OBも含めた会社」という大きなコミュニティの総意に基づいて、トップにいるような状況にあります。だから、その人が祖業に手を突っ込んだり、伝統的な事業から撤退したり、といったことを言い出すと、OB含めて周囲から総攻撃に遭うわけです。「何を考えているのか」と。

祖業や撤退部門に属している社員が、OBに泣きついたりもしてしまう。OBは「今の社長はおかしい」などと言い出し、そこから、週刊誌にたくさん書かれ始めたりする。OBというのは、恐ろしい存在です。

共同体のノスタルジー

ところが、OBには悪意はありません。むしろ正義の気分で行動している。しかし、頭の中は完全に古いままで硬直化してしまっています。昔の思い出の中に生きているのです。そういう人たちが、今のリアリティを理解できているはずがない。必ず「昔は良かった」症候群になる。

ソニーでいえば、ウォークマンがヒットしていた時代で、時間が止まってしまっているのです。今の20分の1ほどの規模のソニーのイメージで話をしていたりする。今はケタ違いに大きくなり、新しい組織に変わっているということが前提になっていない。そしてソニーの記事が人気になったのは、「サラリーマン」のメンタリティを示していると思いました。「昔は良かった」という共同体のノスタルジーです。その象徴としてのソニーの姿を見ている。

しかし、もとより若い世代には、ソニー幻想などありません。今のソニーのメシの種は、BtoBビジネスです。私は今のソニーはまったく正しいと思っています。とても頑張っている。古き良きソニー時代の共同体の中、時間が止まってノスタルジックな発言をしている人たちの言うことなど、聞く必要はありません。今から未来に向かった、本当の意味での未来志向のリアリティはもうなくなっている人たちだから。

日本の経済社会についての議論のバカさ加減は、「ソニーがかつての革新力を失っている」と嘆いたりすることです。あるいは、「ホンダがそういう力を失った」と嘆く。しかし、それはまったくナンセンスです。GEだって、昔はイノベーティブな会社でした。エジソンが作った会社なのですから。マイクロソフトもそうでした。しかし、今はどうでしょうか。

しょせん、会社などというのは、米国であってすら、でかくて古くなったら、イノベーティブではなくなるのです。つねにその時代のイノベーションを起こしてきたのは、新しい若い会社なのです。

これは日本も同じ。明治維新の時から、ずっとそうでした。だから、ソニーやホンダが革新力を失ったことが問題なのではなくて、「どうして第二、第三のソニーやホンダが出てこないのか」ということこそが、問題の本質なのです。

日本の経済ジャーナリズムの論点は、完全にずれています。昔のソニーは良かった。ああ、そうですか、でおしまい。何を言っているのか。それを言ったら、日立だってアントレプレナーの時代があった。どんな会社も、最初はそうだったのです。

メインプレーヤーが入れ替わらない日本

米国の株式市場で時価総額ランキングを見てみるといい。アップル、グーグル、フェイスブックなど、メインプレーヤーは20年前と大きく入れ替わっています。ヨーロッパだって、入れ替わっています。ところが、日本はどうなのか。

日本の入れ替わらなさは、文字どおり、異常なほどです。いや、入れ替わっていなくても、日本の企業が相変わらず世界で勝っているのであれば、問題はありません。そうじゃないわけです。負けているのです。どんどん「フォーチュン500」から消えているのです。これは、明らかに新陳代謝が起きなかったことが敗因です。

日本発の「グローバルベンチャー」は、実はひとつもない。このことに気づかなければいけません。

今の米国のメインプレーヤーは、そのほとんどが50年前には、影も形もなかった会社だらけになっています。日本では、ソニーやホンダも創業から70年以上が経っている。

歴史をひもといてみれば、わかると思います。20年以上の歴史を持ち、1000人以上の規模を持つ古くて大きな会社がイノベーティブに生まれ変わった、などという事象があるかどうか。あったなら、私は教えてほしい。歴史上、ひとつもないと思います。米国でもないでしょう。

だから、すでに存在している会社にイノベーションを期待することは、ナンセンスだと思います。今、存在している会社は逆に、ゼロからイチをつくるというゲームではなく、シェアを高くして、収益力を高めるゲームを推進していけばいいのです。古くて大きい会社は、古くて大きい会社のゲームをやればいい。

ゼロからイチを作るのは、本質的にはベンチャーの仕事です。ではなぜ、日本にグローバルベンチャー企業が生まれなかったのか? それこそが問われないといけない。要するに、ゼロからベンチャー創出をすべき人が、みんな古くて大きい会社に入っていってしまったからです。

しかしこれは、日本の歴史的な体質ではないと思っています。戦後だってソニーとホンダが生まれているのです。新卒一括採用で、古くて大きな会社に入るという社会的同調圧力があったから、入っていただけだと思います。

優秀な人材の創造力を大企業は邪魔してはいけない

米国だって、1980年代はハーバードやスタンフォードを出た学生は、当たり前のようにIBMのような古くて大きな会社に入っていた。ところが、古くて大きな会社が日本企業の台頭で衰えたことで、マインドは大きく変わっていったのです。大きな会社、一流と言われる会社に入ったところで、金持ちになれない。人生の無駄だ、なんとかして自分で始めよう、という空気に変わった。これは日本も同じになってきている。

『有名企業からの脱出 あなたの仕事人生が“手遅れ”になる前に』(幻冬舎)。画像をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

だって今は会社なんて、簡単に起こせるからです。ベンチャーも増えてきた。特に最近は、高学歴インテリ系のベンチャーが増えている。東京大学の最も偏差値が高い理系の研究室の学生は、当たり前のようにベンチャーを自分たちでつくる。あるいは先輩がつくったベンチャーに入る。もっといえば、米国に留学して、向こうで起業してしまったりする。

いいことだと思います。大事なことは、どうやって優秀な学生が、古くて大きな会社に入らないようにするか、だと私は思っています。これは、国の政策として、とても大事なことです。

米国は、結果的にこれをやったのです。日本の大手企業の方々から、「トップオブトップスの学生が採用できない」と嘆きが聞こえてくることがありますが、私は結構なことだと思っています。そういう才能が何かイノベーティブなことをした時、一緒にビジネスをしていけばいいのです。それが、大きな会社の役割なのです。

本当に優秀な人材の創造力を、大きな会社は邪魔してはいけない。その本質に今こそ、フォーカスすべきなのです。

(構成:上阪徹/ブックライター)

<山中英雄のコメント>

Wikipediaによれば、冨山和彦氏は法学部卒後にスタンフォード大学経営学修士(MBA)取得した文系人間であり、この異論は世間一般に流布した情報を捻くり回したお説ごもっともの意見であるが、

「オレの愛したソニー」の伊庭さんは経営面から、丸山さんはソフト面から、大曽根さんは技術・製造面から、土井さんは研究開発面からソニーのひいては日本企業に共通する課題を問題提起し、改善対策を提起している重要なこの論文を理解しないのは 所詮 技術が分からない口先三寸が発した感性に響かない評論としかいえない。

冨山和彦氏は、実際に現場で手を汚し、汗水垂らし、血尿が出るほど追い詰められたものづくりの厳しさや難しさ、そして完成した時の喜び、面白さの経験がないので、ものづくりの真髄が理解できないタイプである。

●冨山和彦氏は、日本発の「グローバルベンチャー」は実はひとつもない。と発言しているが、エレキ分野のベンチャーであったソニー、バイク・自動車分野のベンチャーであったホンダは、いずれも日本発の「グローバルベンチャー」であり、70年経った今も世界的企業として存在観を示している。

●20世紀のアナログ時代では開発・製造装置等に大きな投資資金が必要で、なかなかベンチャービジネスが出現しなかったが、21世紀のディジタル時代になると、少額投資で可能なインターネット、パソコン等を駆使したソフト中心の新しいベンチャービジネスが出現している。

高い成功率のベンチャービジネスは、極端な例としてパソコン一台で仕事ができるIT・サービス産業だが、すでに全世界の人間が挑戦しており、学校教育の問題もありパソコンソフト作成ノウハウに弱い日本人は出遅れている。現実に、日本のIT・サービス産業の大部分は、ソフトバンクの孫、楽天の三木谷など韓国人、中国人等の外人に支配されている。

●冨山和彦氏は、「だって今は会社なんて、簡単に起こせるからです。ベンチャーも増えてきた。」とベンチャービジネスの重要性を説いているが、アメリカ等の外国と違って、日本では失敗した時に借金を全部背負うリスクがあり、銀行も担保がないと金を貸してくれない。

富山和彦氏はコンサルティング・企業再生を取り扱う株式会社経営共創基盤(IGPI)を設立し代表取締役CEOにも拘わらず、日本にはなかなかベンチャービジネスを立ち上げ、再チャレンジする環境にないことを知っているのだろうか?疑問である。

富山和彦氏は日本企業はムラ社会企業の経営だ」「共同体のノスタルジー」と非難しているが、世界中で創業が200年以上の企業は5586社あり、そのうちの実に半分以上の3146社が日本にあり、それに837社のドイツ、222社のオランダ、196社のフランスと続いている。 世界最古の企業は、法隆寺等の寺社仏閣建立に携わった578年創業の建設会社・金剛組、705年創業の温泉旅館・慶雲館、717年創業の同じく温泉旅館・千年の湯古まんと、ベスト3もすべて日本企業である。そして、創業100年以上の長寿企業は日本全国に26,144社存在する。
創業 100 年以上の「長寿企業」、全国に 2 6144 - 帝国

https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p130901.pdf 

こんなに多い日本の100年企業 100年続く秘訣とは? | 百計オンライン

https://hyakkei-online.com/archives/772

この日本的経営による長寿企業の存在について、富山和彦氏の見解を聞きたいものである。

 




































































































































































































 オレの愛したソニー 大曽根語録

<ウォークマンの父、大曽根幸三が鳴らす警鐘>

伝説の技術者としてだけでなく、数々の名スローガンや語録を打ち出して部下をやる気にさせるという、大曽根さんのマネジメント手腕も有名です。だからこそ最後は、ソニーの副社長になった。・・・・日経ビジネス取材記者の宗像誠之氏コメント

大曾根さんの「オレが愛したソニー」は日経ビジネスに5月30日~6月1日の3日連続連載された記事だが、半導体・LCDプロセス技術と海外アフターサービス技術を経験した小生は大曽根さんのコメントに全面的に共感・共鳴・賛同しているが、その中で共感・共鳴・賛同する内容を列記し、小生のコメント▼を述べますので、ご一読していただければ幸いです。

「管理屋の跋扈でソニーからヒットが消えた」(上)

①「まだ世の中にないものなんだから、消費者に聞いて調査をしても、欲しいものが出てくるわけがない」

昔のソニーは、市場調査なんてものをあまり重視しなかった。だからこそ斬新な製品を生み出せたんだよ。「まだ世の中にないものなんだから、消費者に聞いて調査をしても、欲しいものが出てくるわけがない」っていう考え方だった。

 初代ウォークマンを作り始める時もそうだったな。

 そもそもは井深(大、ソニー創業者)さんが海外出張に行く際に、飛行機の中で自由に音楽を聞きたいということで、「何かおもしろいものはないか?」と、当時テープレコーダーを作っていた私の部署に、ふらりと来たことがきっかけだったんだ。

② 井深さんと盛田さんは、ウォークマンのハード面とソフト面のすごさを、それぞれ最初に言い当てたということだ。

ウォークマンのコンセプトを披露した時に井深さんが言ったのは、「音楽は空気振動だから、できるだけ鼓膜に近いところで音を出した方がいい。出力をアップさせた据え置きのオーディオより、この方が迫力のある音で聞けそうだな」ということ。これはハード面の観点からウォークマンのすごさを理解したコメントだと思う。

 一方で盛田さんは、「今の若者は寝ても覚めても音楽を聞きたがる。これは売れるぞ」というようなことを言っていた。これはソフト面からウォークマンのすごさを見抜いたコメントだよね。

2人とも技術者出身で技術を理解するからこそ、それがもたらすインパクトを、コンセプトを聞いた段階で先読みできたんだ。ウォークマンのハード面とソフト面のすごさを、それぞれ最初に言い当てたということだ。まだ見たこともない製品の話なのに、そういう意見をすぐに言えるっていうのは驚きだよね。

③「やりたいことは上司に隠れてやれ」

私は、売れそうだからと思うだけでなくて、自分が欲しいものをいろいろ作ってきただけなんだ。最初は仕事の合間に、密かに新製品の構想を考えていて、空き時間を使って、それを試作していたんだ。まるで「どぶろく」のようなもの。お上に隠れてこっそり作る密造酒みたいなもんだよね。

「かつては奇人変人の発想でもすぐに理解された」

何でも新しいものは、最初はマイノリティーの人たちが考え出すんだよ。誰もが思いつくものではないからね。

 最初は少数人にしか理解されないくらい斬新でとがっているアイデアだから、当たり前だよね。1人か2人くらいの変わり者が、新しいものを生み出すんだよ。だからこそ異才とか、変人と呼ばれる人たちが重要なんだよね。

 昔のソニーがすごかったのは、そういうごく少数派の奇人変人が、思いついたアイデアをもとに密かに試作した機器を見て、そのすごさをすぐに理解できる経営トップがいたということだ。だから仮に直属の上司が反対したとしても、話の分かる人がその上にいれば、チームでサポートしてもらえるようになって、世に製品を出すことができた。

 これはさ、現場のすり合わせや、チームでアイデアを実現していくという、組織力が強い日本企業ならではだよね。外資系企業だと、「これは元々、俺のアイデアだ」とかさ、成果を取り合っちゃうから。こうはならないよ。

 ソニーだけじゃなくて、ほかの日本企業にもこういう古き良き日本のよさがあった時代だと思う。いいアイデアを出す人がいたら、それをうまくチームで育てて、みんなでハッピーになろうという発想だよ。それに必要なのは、上に立つリーダーが、粗削りなアイデアをすぐ理解して、胆力を持って時間をかけて見守りながら、大事に育てていこうとする行為だよ。

⑤ 斬新なアイデアは誰にまず披露すべきか

ウォークマン開発で参考にすべき最大のポイントは、「斬新なアイデアを、誰にまず披露して、バックアップしてもらえるようにするべきか」という部分だろうね。そういう目利きができる人に最初に話をもっていかないといくらおもしろいアイデアでも、理解されずにつぶされてしまう危険性があるからさ。

⑥「15だからイチゴー。イチゴープロジェクトと名付ける」

15%の市場シェアを目指してがんばろうぜ」って発破をかけたただ、掛け声だけじゃつまらないからスローガンっぽくして、15だからイチゴー。イチゴープロジェクトと名付ける」って宣言して、ハイファイのシステムコンポを正月くらいからソニーが出して頑張ったら、シェア6位だったのに1年間でシェアトップになっちゃった。

 それでも勢いは止まらなくて。シェアは20%を超えて、最終的にはシェア30%くらいになったんだよね。当時のソニーってさ、現場の技術者を本気にさせると、こんなすごいことができた。そんな勢いがあったんだよね。

アンプやスピーカーなどが他社製のようにモジュールごとに分離しているデザインだけど、実際には配線が最初からつながっていて、箱から出したらすぐに音楽が聞けるハイファイを作ったんだ。

赤字事業を「百獣の王プロジェクト」で挽回

未経験のテープ事業を担当して、赤字解消のためのプロジェクトを立ち上げたんだ。ちょうど110億円くらいの赤字だったから、これを解消するために、110(ひゃくじゅう)」という数字の読み方にかけて、「百獣の王プロジェクト」って名付けたんだよね。

 そしたらみんな頑張っちゃって、翌年には100億円以上の黒字になった。つまり200億円以上の利益改善をしたことになる。私が責任者について、「百獣の王プロジェクトで赤字を解消するぞ」と発破をかけ続けた結果が、これだった。

 現場のメンバーは大きく変えてないのに、責任者が変わって、明確な目標を出したらこうなった。これは強烈な経験だったよね。いかにリーダーというか、“大将”の言葉が重要かって思い知ったよ。

考えてもみてよ。シェア6位の状況から、はるか上のシェア1位になれる15%の市場シェアを取らなきゃいけない。そのプレッシャーはみんな大変だったと思う。だからこそ私は、「イチゴープロジェクト」みたいな掛け声や、バッジを作るといった遊び心が必要だと思ったんだ。

端的かつ分かりやすい目標で人を動かす

「端的かつ分かりやすい」というのが、大曽根語録の真骨頂ですよね。そういう実体験から、人や組織を動かす言葉がどんどんと磨かれていったんですね。

大曽根;こういう分かりやすい目標って重要なんだよ。ハイファイの時は15%の市場シェアを取るために、数字の読みにかけて「イチゴープロジェクト」を立ち上げたと言ったでしょ。110億円の赤字解消だから「百獣の王プロジェクト」と名付けたのも同じ発想だよ。

 まずはこの数字が当面のゴールだということを、みんなに意識させたかったんだ。もちろん言葉だけでなく、見えるモノを作って意識合わせすることも重要だと、これらのプロジェクトを通じて学んだんだ。プロジェクトメンバーには専用バッジまで作ってね。それを部署のメンバーが胸に付けて頑張ったんだ。

「おもしろくなきゃ仕事じゃない」

私は「仕事には遊び心が必要」という思想を持っているんだ仕事が楽しくなれば、多少はつらくても頑張ろうって気になるし、やれることは何でも徹底的に追求したいという粘りも出てくる。ここで言いたいのは、どんなにつらい時でも、そういう遊び心を持てる余裕を持つことが、新しい革新的なアイデアや創造的なものを生む原動力になるということなんだ。「おもしろくなきゃ仕事じゃない」と、みんなに分かってほしかったし、その思いが部下に通じたから、ハイファイやテープ事業の無茶なプロジェクトは成功した。

「管理をするばかりが能じゃない」

たとえコスト削減が必須な仕事でも、管理をするばかりじゃ能がない。ある程度の自由度を現場に与え、遊び心を忘れないようにして次への希望を生み出すことが重要なんだよ。

 そうしないと新しい発想の逆転劇なんて出てこないから。必要なのは、「やってみないと分からない」という精神。失敗をとがめるやり方じゃ誰も挑戦しなくなるから、あえて私はそうやってきた。若い人に対しては、特に失敗をとがめたりしないで、私心を含まずに評価してあげれば、失敗しても何度でも立ち上がって挑戦してくれるよ。

“管理屋”が跋扈する今のソニー

 おもしろいスローガンを作って盛り上げるとか、遊び心を大事にするとか、そういうのが全くなくなった。

 数字で管理されてばかり。それはそれで大事だけれど、成果主義や結果主義が行き過ぎると、人間のモチベーションは落ちて自由な発想なんてできないし、長いプロセスを経ても作りたいという思いも薄れて、新しいものが出てこなくなるのは当たり前だよ。

 荒削りのアイデアでも、技術が分かる専門家ならピンときて、「これはいけそうだ」と分かる。今のソニーにはそういう人がいないから、ヒット商品がずっと出なくて、二番煎じみたいな製品ばかりが増えてしまった。

井深さんに言われた「次は何を作ろうか」

私はソニーに中途入社して以降、井深さんや盛田さんの近くにいたので、現場に腹落ちする言葉を使って話をする重要性を理解していた。現場の技術者のモチベーションをいかに盛り上げるかという大切さがよく分かったからさ。井深さんはよく、モノ作りの現場に来てさ、「次は何を作ろうか」っていうのが口癖だったね。この言葉が、一兵卒の技術者としては嬉しくてさ。井深さんは、俺のところに来ると「次は何やろうか」ってそればっかり。新製品ができたのでほめてくれるのかと思ったら、「それはもういいから、さあ次は何だ」ってね。「次々に新しいことをやろうぜ」っていう雰囲気ができてないと、現場もそういう意識にはならない。そうじゃないと革新的なものが出てこないよね。新しいものを作るのがメーカーなんだから、やはり、そういうトップが必要なんだろな。

 しかも何が革新的なのかを、井深さんや盛田さんが自ら考えて言ってくれていたし、現場からのアイデアも遊び心を大事にして聞いてくれた。トップと現場の技術者が互いに刺激を受けながら新しいものを生み出すことの大事さを、井深さんと盛田さんは次の世代の指導者のために、あえて見せようとしていたんじゃないかな。

 そうやって、次世代のリーダーを育てようとしていたんだろうね。実際に私は2人の姿を見て感化された。だから私も同じことを次の世代にしてあげたいと思ったし、してきたつもりだ。

「大事なのは“社風”じゃなくて“社長風”」

どうしても会社や組織が大きくなってしまうと、「和」を保ちたがる人が多くなるんだ。異端や斬新なアイデアを、管理が得意な人が潰していく

つくづく思うのはさ、「ソニーには、自由闊達な社風がある」と言われ続けてきたけど、実は“社風”なんてものはこの世に存在しない、ということなんだよ。

 あるとすれば、“社長風(しゃちょうふう)”

 社長の考え方をいかに周りの幹部や社員たちに伝えて、感化させていけるのかということが組織の行く末を決めるんだ。それが今も社風という言葉で言われるけど、突き詰めると会社の社風ではなく、それは社長の生き方や考え方なんだ。

 だから私は「社風」とは言わず、「社長風」と言っている。社風じゃなくて社長風が大事なんだ。その証拠に、本当に社風という言い方が正しいなら、社長が変わっても会社の方針や雰囲気はずっと変わらないはずだろう。だけど実際は、社長が変わると会社の雰囲気が変わってしまう。

 ソニーの歴史を見れば分かるでしょ。だから本当は、社長風が正しいんだ。

 組織の上に立つ者の哲学や考え方、影響力がいかに甚大か。これは、自分がソニーをリタイアした後に冷静に振り返ると、本当に痛切に感じるんだ。

⑭ 技術系経営者か、そうではないか

出井(伸之、ソニーの会長兼CEOなど経営トップを歴任)さんが社長になって、会社の雰囲気がガラリと変わったよね。大賀さんは技術屋じゃないが、井深さんと盛田さんの薫陶を受けていて、技術の重要性を理解していた。何より、この技術がものになるかというセンスはあったよね。

 ソニーがメーカーである以上、ビジネスのことに精通しているだけではダメで、テクノロジーが理解できないトップはダメだ。新しい技術に対峙した時に、その技術が使われるであろう、まだ見たことものない世界を想像するには、技術の先読みができないと不可能だから。

メーカーはトップが技術を理解できるかどうかが重要なんだ。新しい技術が出てきた時、どれに大きく投資するかがメーカーの経営判断では重要になる。だから新技術を起点に、まだ見ぬ将来像を自分で描けないと辛いでしょう。

⑮「3年で利益の出る技術ならほかも真似する」

今のソニーの稼ぎ頭の事業になっているイメージセンサーは、岩間(和夫、元ソニー社長)さんの時代から、すぐに利益が出ないのに投資をしっぱなしだったんだから。開発を始めた当時は、当然のごとく利益なんて出てないし、少なくとも10年以上は開発のための投資が必要と言われていたのに、それを続けた。

 まさに技術の先読みができて、「いずれこの技術で儲けられる時代が来る」って確信ができなければ、こんな投資はできないよ。 でもさ、研究開発を始めて、たった3年で利益が出るような簡単な技術なら、どんな企業も真似するよ。そうじゃない技術の「芽」を見出して事業化しようとする目利きがあるからこそ、差別化ができるんだ。まさに昔のソニーは、ほかの企業なら踏み込まないような領域の技術開発に挑んで、必ず実用化する気概と忍耐力を持っていたんだ。

 冷静に考えてみてよ。井深さんや盛田さんの時代には、トランジスタラジオやウォークマンが出てきて、岩間さんはイメージセンサーの走りを作った。そして大賀さんはCDなどを世に出した。だけど大賀さんの後のソニーの経営トップはみんな、歴史に残るような製品を何も出せてない。技術が分からないトップが就任すると、こうなるってことだよ。

▼この観点から、森尾さんが開発したハンディカムは歴史に残る製品だが、大賀さん後継者と思われていた森尾さんが、週刊誌(文春)で報じられた女性スキャンダルで社長の芽がなくなり、やむなく盛田一族のエレキ技術の分からない出井さんが社長になったのがソニー凋落の原因ですね。

「ソニーも大将が変わればがらりと変わる」(中)

「“できる人間”を生かすには、“できた人間”が必要」

井深さんや盛田さんは“できた人間”だったってことだよ。だからこそ、ソニーにいた“できる人間”は自分の能力をいかんなく発揮し、活躍できた。

会社というか組織って、そういう頭が良くて優秀な“できる人間”だけを集めても、うまくいかないんだ。彼ら彼女らをうまく機能させるには、人徳や胆力などの人間力で、組織をまとめる能力を身に着けた“できた人間”ってのが必要なんだよ。“できた人間”をきちんと育てて、そういう人が組織を率いるようにすれば会社はうまくいく。

“できた人間”は、懐が深いから斬新なアイデアを出す人材も大事にする。奇人変人も含めてね。短期では芽が出なさそうでも腰を据えて研究開発すれば革新的な製品につながりそうな技術を見出して、どっしりと構えて部下に開発を続けさせることができるんだ。

今後のソニーも、大将が変わればがらりと変わる

ソニーのようなハイテク企業は、組織のリーダーが技術に疎くてはダメなんだよ新しい技術に終わりはなくて、次から次へ進化していく。それをいち早く理解して、どんな世の中が到来するのか想像できないと、どんな製品やサービスが売れて儲かるのかも分からない。大賀さんの後、もう四半世紀近く、ソニーでは技術屋ではない“大将”が続いているということ。

 正確に言うと、大賀さんは声楽家だけど、彼のように一芸に秀でる人間は多芸を理解できるんだ。だから大賀さんは技術も理解できた。井深さんや盛田さんに囲まれて仕事をしていたから鍛えられた面もあるだろう。

 それは私も同じでね。既存製品の延長線上にあるような新製品のアイデアを井深さんに提案したりすると、「もっと飛躍した発想はできないのか」と叱られたりね。私が課長くらいの頃から、井深さんには厳しく鍛えられたよ。

 だから今後のソニーも、大将が変わればがらりと変わる。

取り巻きにお友達、ごますり…

取り巻きにお友達、ごますりを集めて反対意見が出ない状況を作りだして、経営陣や幹部が自分勝手にやりたい放題ではダメでしょ。そういう状況が続いたから、ソニーの経営は長年にわたって迷走したんじゃないか。

「エレキ事業全体で分社化すればよかった」

もう経営トップが技術を先読みした経営ができないのなら、さっさとソニーを持ち株会社化してしまった方がいいと思うね。エレキ事業全体を分社化して、そこのトップを技術系にすればよかったんだ。

 エレキ事業はエレキの技術が分かる人に任せること。今も金融事業は金融分野が分かる人材に任せているんだから、そうした方がいい。エンタテインメント(エンタメ)も同様だよ。事業の性格が異なるんだから、そういう経営体制にすればいいんじゃないの。

▼出井さんはエレキ技術が分からないから、ソニーを持ち株会社にして傘下に、エレキ会社を大曽根さん、情報機器会社を森園さんに任せていたら、盛田さんや大賀さんが手こずっていたハリウッド映画を安定化させた功績のある出井さんはソニーを成長させていたかもしれないですね。

しかし恐らく出井さんは、従来の熟練ノウハウ満載のアナログ技術のエレキ事業に対抗して、「デジタル ドリーム キッズ」の謳い文句でVAIO PCに代表されるデジタル事業を自分の功績にしたい野望があったのではないかと思われる。そのために、それぞれの大御所である大曽根さんや森園さんを遠ざけたのではないだろうか。

ストリンガーも読んだ提言書

大曽根さんは2009年、ストリンガー体制を批判した文書を執筆しています。「ソニーよ、“普通の会社”にまで堕ちてどうする」という仮題が付けられたストリンガー体制批判した文書を執筆しています。

大曽根;単にストリンガーやその取り巻き経営陣に「拳々服膺(けんけんふくよう、肝に銘ずるという意味)してくれよ」という意図を伝えたかっただけなんだ(笑)。

現場社員の不平を代弁して提言書を書いた。

「他社の反応」を気にするソニー社員

今は、新しい部品を開発してソニーに持って行っても、「この部品は採用実績があるのか」「他社はどう言っているのか」なんてソニーの社員が言うんだって。もうビックリだよ。

「仕事の報酬は仕事」

いい仕事をした奴には、ご褒美として新しい“おもしろい仕事”を与えてきたわけだから。みんな、給料がどうこうというよりも、仕事がおもしろくて生き生きとしていたよね。だから、おもしろい製品が生まれたんだ。

業績が悪いのに経営トップは報酬数億円?

許せなかったのは、そういう報酬体系を作るためにガバナンスの体制をいじったことだよ。報酬委員会の人たちを“お友達”で固めて、自分の報酬をガッと上げる大義として利用してたようにしか見えなかった。

上司がファジーだと部下がビジーになる

 その頃は「上司がファジーだと、部下がビジーになる」っていう教訓も言っていたんだ。これなんかまさに、近年のソニーの経営をうまく言い表しているでしょ。トップの言葉や方針が曖昧でよく分からないと、現場が迷走してムダに忙しくなるってことだよ。

「立ち上がれ!ソニーの中の“不良社員”」(下)

①「出井さんが軽視した、将来有望のバッテリー事業」

一度は売却する方針を出して、後に撤回したバッテリー事業に関することかな。具体的には、ソニーが今も手掛けているリチウムイオン電池事業。こういう、新興国勢がキャッチアップできない分野の事業を大事にすべきだと、もっと強く言っておくべきだったと思うね。出井さんがトップになってから、「自動車会社の下請けなんてダメだ」と言い出して有望だった電気自動車向けのバッテリー開発を重視しなくなったんだ。

このトレンドを見抜いたパナソニックは米テスラモーターズと組んで、電気自動車用のバッテリー事業を大規模にやり始めた。技術を持っていたのに、なんでソニーがこれをやってないのか、忸怩たる思いがあるよ。

「電池が火を噴いても挑戦しろ」

 でも大賀さんは言っていたの。「教科書がないんだから仕方がない。ソニーが新しい教科書を作っているんだから、何が起こるかも、何をしたら失敗するかも分からないよ。だから細心の注意を払いつつ、いろいろ挑戦しようよ」ってね。

 「煙が出るだけじゃなく、電池が火を噴いても、ちゃんと保険をかけてあるから安心して、どんどん挑戦をしろ」と発破をかけられてたよ。経営トップからそう言われたら、現場は盛り上がるよね。そのくらい将来性のあるバッテリー事業なのに、この10年で有望なエンジニアがどんどん辞めてしまった。

「リストラを繰り返してソニーは弱り切った」

10年以上も続いたリストラに次ぐリストラで、ソニーを去った人は約78万人。開発や設計、技術、営業など、幅広い職種で、優秀な人材がいなくなった。リストラすると、どうしても能力のある人から先にやめていくのが致命的だよね。

ソニーの救世主になり得た化学部門

最先端の技術を持ちながら、選択と集中による事業リストラで消えていったのは、「AIBO」のようなAI(人工知能)や、ロボット技術だけではないんですね。

大曽根;今、しきりに思うのは、韓国勢や中国勢が台頭しても、すぐ真似をされない分野は、ソニーグループにちゃんとあったってことなんだ。そういう意味では、ソニーがかつて持っていた化学部門が極めて重要だった。ソニーケミカル(現デクセリアルズ、2012年にソニーが投資ファンドなどに売却した)っていう会社ね。

 例えば半導体や液晶が分かりやすいけれど、物理学を基本にした技術や製品は、装置があれば作れてしまう。技術もノウハウも、今は日本製の製造装置に入っているからね。

半導体は物理学の世界で、原理原則をきちんとやると、後は論理的に同じ結果が出る世界なんだ。だから同じ装置を使えば、同じ品質のものが作れる。

 ソニーがトランジスタラジオで一世を風靡したのは、世界のどこを探してもトランジスタの製造装置なんてなかった時代だからだよ。ソニーは自分で独自の製造装置を作って、トランジスタラジオを作った。だから競争力のある製品だったんだ。

その製造装置は外販していなかったから、ソニーのトランジスタラジオは差別化できた。

▼従来のソニー半導体は、エピタキシー成長による不純物濃度制御技術やシリコン窒化膜等のCVD技術などのプロセス技術が優れていたので、セット側の性能要求に応じた高性能なトランジスタやバイポーラICを開発生産でき、これらを採用したカラーTV、ハンディカム等の電機製品でソニーは他社に対して優位な立場を築いていた。

しかし、MOSIC時代になると優位性のあるプロセス技術が見当たらないのが、ソニー半導体低迷の一因だったかもしれない。

「ストリンガー時代の経営陣はあまりに技術音痴だった」

物理の世界と違って、化学の分野は全く異なる勝負ができるんだ。化学分野では、触媒を一つ変えるだけで、従来と大きく異なる素材や製品ができるからさ。BASFや米3M、米デュポンといった化学分野の企業は、今もちゃんと生き残っているでしょ。東レとか、日本勢も化学分野は元気だよね。あれは化学分野が、簡単に新興企業に真似されにくいことの証左だよ。今もソニーケミカルが作っていた部材の世界シェアはものすごく高いよ。

 これは当時のソニー経営陣が、あまりに技術音痴で、先を読めなさ過ぎることを証明していると思うね。こんな大事な技術を持つ会社を、「ノンコア事業」と判断して、手放しちゃったんだから。

前回紹介した「ひとりごと」ブログによれば、米国が戦略的に強い日本の象徴であったソニーにCIAの協力者ストリンガーを送り込み、アップルとCIAに嵌められ、ソニーが木っ端微塵に崩壊されたということ。それに協力して悪さをしたのが吉本興業で、竹中平蔵ら日本政府は出井が騙されているのを知っていて放置した。株主比率が米国のが上だったソニーは日本の企業とは言えず、日本政府にソニーは見捨てられた。
 エレキ分野でソニーの競争力を維持できる分野はロボットとリチウムイオン電池事業で、AIBOはエンタメとのシナジーが大きい製品だったがAIBOをやめる決断と、電気自動車用のバッテリー事業の核となるソニーケミカルを売却したのはCIAの協力者ストリンガー会長であり、applegoogle米テスラモーターズの脅威となるソニーの将来性を木っ端微塵に崩壊させたのではないかと思われる。

化学、メカ…優位な技術を捨てる経営陣

まだソニーに残っているバッテリー事業も化学分野だからね。差別化しやすい事業なんだから、その重要性にちゃんと気が付いて大事に育ててほしい。

「売却する」と経営陣が言った時点で、キーパーソンの技術者がいなくなったはずだよ。 かつてソニーには化学分野のソニーケミカルがあり、メカの分野であるロボット事業もあった。それなのに自分で優位な状況を捨てちゃった。日本のお家芸を生かして伸ばせる化学とメカの事業があったのに、売却したり、撤退したりでね。

添付ファイル超イオン伝導体を発見し全固体セラミックス電池を開発―高出力・大容量で次世代蓄電デバイスの最有力候補に―」のように、東京工業大学大学院総合理工学研究科の菅野了次教授、トヨタ自動車の加藤祐樹博士、高エネルギー加速器研究機構の米村雅雄特別准教授らの研究グループは、世界最高のリチウムイオン伝導率を示す超イオン伝導体を発見し、超イオン伝導体を利用した全固体セラミックス電池が最高の出力特性を達成した。これは高エネルギーと高出力で、次世代蓄電デバイスの最有力候補になりうるが、ソニーも継続して電気自動車向けのバッテリー開発を推進しておれば、と残念ですね。

ところで、この全固体セラミックス電池が実用化されれば、電気自動車が一気に普及する可能性があるが、先般 パナソニックは米テスラモーターズと組んで、電気自動車用のバッテリー事業を大規模にやり始めたが、ひょっとしたら、パナソニックはこの全固体セラミックス電池を採用するかもしれないですね。

シェール革命で原油・ガスの埋蔵量は飛躍的に増大し、且つ南シナ海・東シナ海・日本海にはサウジアラビア以上の原油埋蔵量が確認されており、今後数百年は石油・ガスの心配はないと言われている中で、この全固体セラミックス電池が本物だとすると、トヨタ・ホンダが政府・業界を動かして全国に水素ステーション展開して燃料電池自動車普及を目指す方針はどうなるか微妙ですね。

結果的に、さすがトヨタは電気自動車と燃料電池自動車の二股を掛けていますね。

Tシャツ、ジーパンで取締役会に参加?

ソニーはエレキ事業に注力し続けていてもよかったと思えるのに、映画や音楽というエンタメ事業や、生命保険などの金融事業といった、モノ作りから離れた分野に多角化していきました。これはなぜでしょうか。

大曽根映画や音楽、金融と、業容を広げていったのは盛田さんのアイデアだね。当時も今も、メーカーとしては異例の多角化だったと思う

 金融分野に進出したのは、盛田さんが「銀行に頭を下げてばかりいられないから、いつかはソニーグループで金融事業を持ちたい」と、しきりに言っていたことが始まりだよ。

そうすると米国から、米ソニー・ミュージックエンタテインメントや、米ソニー・ピクチャーズエンタテインメントの幹部連中が東京に来るようになった。これが結構なカルチャーショックでね。みんなTシャツにジーパンで、靴下もはかないでスニーカーだったりして。そんな恰好でソニーの本社に来るわけだよ。

だから、向こうに任せっきりで野放しになっていた部分はあるんだろうけど。米ソニー・ピクチャーズでは経営トップの2人が、しこたま会社のカネを使いこんでいる時期があったよね。どういうタイプの人間がこの業界で信頼してビジネスを任せられるのか、それを見極める力が足りなかったのかもしれない。

ジョン・ネイサン著「ソニードリーム・キッズの伝説」によれば、ハリウッド映画事業は盛田さんと大賀さんが任命した現地のグーパーとピーターズ、シュルホフにかき回され、浪費されて悲惨な結果となっていたが、結局 欧米慣れして英語・仏語堪能な出井さんが立ち回って彼らを首にしてコーリーを採用して映画事業を安定させたようで、丸山さんによれば、出井さんの功績は問題の2人を首にして有能な人材を探して映画事業を安定させたことですね。技術が分からない出井さんは技術以外の映画、音楽、金融等のソフト事業に専念し、エレキ事業は大曽根さんに、情報機器事業は森園さんに任せておれば、うまくいったかもしれないですね。

「プレステはソニー本体と距離があったから自由に作れた」

私が副社長をしていた時、プレステを久夛良木が出すっていうんで、「ソニーはおもちゃ会社じゃないんだから、ゲームの機械にソニーの名前を付けちゃだめだ」と私が意見したんだよね。そうすると大賀さんも、「それはそうだな」と同調してくれて。だからプレステは、「SONY」という名称が入っていないでしょ。今でもソニーの製品というより、「プレステ」として認知されている。それで良かったんだよ。

 そういう経緯があるから、あえてソニー本体ではやらなかった。ゲーム事業はソニー本体から少し離れて自由にやれるよう、あえてソニー・ミュージックとの共同出資にして遠ざけていたから、しがらみなく成長できたんだよ。

プレステに「SONY」という名称が入っていないのは大曽根さんが反対したから、とは初耳ですね。そして「ソニーはおもちゃ会社」説の丸山さんと大曽根さんは意見が合わないですね。

任天堂がゲーム機開発を依頼?

当時、ゲーム事業への参入について、ソニー本体では反対派が多かったと聞きました。

大曽根私は別にゲーム事業の参入に反対していたわけではないよ。参入しても、製品にソニーの名前を入れないように、と考えていただけで。

 後のプレステにつながるゲーム機は元々、任天堂に頼まれて開発していたんだ。それなのに任天堂が「やっぱりいらない」と言いだしたのが発端だよね。そのうえ、「これまでの開発費も払わない」と言われちゃった。そんな理不尽なことあるかということで、「よし。じゃあ自分たちでやろう」ということになったんだ。もう売り言葉に買い言葉で、久夛良木と大賀さんが話をしてやることになった、という経緯があるから。そしてプレステが生まれた。

 ソニーがゲーム事業に入るとなったら、ソフト会社とはいい関係が作れるだろうと私は思ったよ。ソニーは音楽や映画事業も持っていて、コンテンツの重要性を理解する人材がグループ会社にいることも分かっていたからね。

プレステにつながるゲーム機は元々、任天堂に頼まれて開発していたんだ」とは初耳ですね。結局 任天堂は理不尽なことをして競争相手のプレステを生み育てたんですね。
ソニー復活のカギを握る有能な“不良社員”

しかし、プレステ後は斬新なヒット商品が生まれていません。今後、ソニーはかつてのようなヒット商品を生み出す会社に復活できるのでしょうか。

大曽根まだソニーは大丈夫。建て直せる余地はあるよ。本来はものすごく豊かな発想で、アイデアをたくさん持っているエンジニアがいるはずなのに、管理屋に経営を牛耳られて不良社員化しているだけだから。リストラで抜けた人もいるけれど、不良社員化して社内に残っている人もいるはず。

 こうした人材が辞めてしまう前に、どうにかしてまた、やる気を起こさせることが重要だろうね。“有能な不良社員”をいつまでも社内で腐らせておくのはもったない。それがソニーを復活させるカギだろう。

 ゼロを1にする人と、1100にする人は別モノなんだ。そこそこ優秀な技術者なら、1100にすることができるかもしれない。けれどゼロの状態を1にできる人はなかなかいない。そういう人はこだわりが強くて、奇人変人と呼ばれる類の人かもしれない。そんな人材をマネジメントできないと、新しいモノやおもしろいモノは生み出せないよね。

茶坊主の下には茶坊主しか集まらない

ソニーの経営陣が、何とか、そういった人材をマネジメントできるようになってほしい。そのためには技術の先読みができる経営陣でないと難しいだろうね。トップが技術を理解できないなら、右腕に技術系の人材を据えて、補えるようにするとか。

 有能な不良社員をやる気にさせるには、技術的な目利きが重要になる。その目利きはやはり社内の人がやるべきだ。異能のリーダーの下に異能の人材が寄ってくるんだ。逆に、茶坊主の下には茶坊主しか集まらないんだよ。

⑫「クヨクヨしないで頑張ろうよ」

実体験に裏付けされた、歯切れがよい大曽根さんの言葉は痛快で、人に元気を与えます。衰退する日本の電機産業や日本の技術者などにメッセージはありますか。

大曽根メディアは「失われた20年」とか暗いことばかり言うけれど、もっと前向きなことを報道してほしいよ。 産業の歴史から何を学び、どうしたら日本勢の強みを伸ばして成長できるか考えるべきだろう。化学やメカの分野で、まだ日本は技術を蓄積できていて競争力を持っている。強い産業はきちんと強くなっている。日本全体が変にクヨクヨしないで頑張ろうよ、って言いたいね。

 世界で闘える電機メーカーだってまだまだたくさんあるよ。デジタル家電の部品会社として元気のいい村田製作所や京セラ、TDKは、もともと化学分野の製品も作っていたんだよ。抵抗・コンデンサとかね。だから韓国にも台湾にも中国にも、あんな機能を持つ部品を作れるメーカーが生まれてこないんだ。

 米アップルのiPhoneも、1台につき約35%が日本の部品メーカーの部品を使っていると言われているでしょ。日本製部品の信頼性や品質は化学分野の強さから来ていて、今もとても競争力がある。

 後はメカや機械の世界ね。実装機や生産設備もそう。産業機械からコマツのような建機まで、それらはメカの分野だ。この分野の製品も新興国勢は簡単にはマネできない。 その、機械とメカの塊が自動車だよ だから産業機械や素材、生産設備、医療機器、ロボットなど、そういう分野では、まだ日本勢が伸びるよね。しかも日本にはそういう分野の基礎技術や開発、生産のインフラが整っている。すそ野となる企業も育っている。こういう分野こそ日本企業は強化すべきなんだよ。

⑬「市場が成熟?バカ言っているんじゃないよ」

一般消費者向けの最終製品ではなく、主にBtoB(企業間)や黒子となるような分野で日本のメーカーは生きていくべきなのでしょうか。

大曽根そんなことはなくて、考え方次第だよ。あらゆる製品で「市場は成熟している」とか、したり顔で語られるけれど、「バカ言っているんじゃないよ」と言いたいね。今の製品なんかちっとも成熟してない。

 最近の製品は処理能力が上がっただけで新しさを感じられない。だから誰も欲しいと思わなくなった。これを成熟市場になったからだと勘違いしているけれど、次から次に進化する未知の世界はあるんだよ。単に新しいコンセプトの創造ができてないだけなんだ。

 どういうコンセプトの製品を作ろうという観点が、今の日本企業の最終製品にはなくなってきている。

 結局、処理能力や機能向上ばかりの新製品が増えてしまうのは、1100にすることが得意な人間が幅をきかせているっていうことなんだろうね。目標設定能力を持った人間がなかなか出てこないのだろうけど、確かにゼロを1にする人はそんなにいないよ。ただ重要なのは、そういうコンセプトを作れる人間を日本で大事にできるかどうかだろう。

「この世に全くないモノを新しく創ろうなんていうことだけに、捉われなさるな」とも言いたいよ。衣類やモーターみたいに、元々あるものでも新しい発想や組み合わせで革新を生めるんだから。

⑭「まずはやってごらん」と言いたい

白物家電の分野もおもしろいよ。羽根のない扇風機を作ったよね。洗濯機や電気釜とか、日本勢しか作れないような製品がまだ出てきて、高い値段でも売れている。

 勝てる領域で新しいことを大胆に発想して、「まずはやってごらんよ」と言いたいね。そういうムードができれば、日本からまた新しいものが次々と生まれるよ。

 まず自由に発想してほしいよね。みんなが何に困っていて、どうやったら便利になるのか、どんな世界になれば楽しくなるか考えていこうよ。

 例えば、今も高速道路は渋滞していて正月や連休は大変になる。自動車のドローンみたいなものが出てきて、ひょいと3メートルくらいの高さまで上がって、すーっと空を飛んで進んで、渋滞が途切れたところまで飛んだら、また道路に降りて走行できるとか。ドローンは垂直に離着陸できるから、この技術をクルマと組み合わせられないのかな、とかさ。

 「バカみたい」とか「そんな無茶な」とか思うかもしれない。だけど、まずは発想を豊かすることが重要なんだよ。そうしないとゼロは1にならない。

 クルマもまだ進化するし、新しい需要を生みだせる。発想次第では、クルマをベースに新しいモノを出せるはずなんだ。衣類やモーター、クルマもそうだけど、まだ需要があって使っているものは、成熟市場になんてならなくて、成長産業になり得る。いらないものだったら、すぐにこの世からなくなっちゃう。必要だから、まだ存在しているんだから。
⑮ 発想次第で、新しいモノはできる

サービスでもいいんだよ。セブンイレブンは和魂洋才で生み出した新しい小売りサービスだよね。元々は米国で生まれたサービスを日本流にして、今の進化したコンビニビジネスができて、本家を追い抜いちゃった。

 こういうので失敗するパターンは、海外で流行っているからと、そのまま日本に持ち込んで、うまくいかないやつね。日本向けの工夫がないからダメなんだ。「無魂洋才」じゃあセブンイレブンにはならない。既存のものにひと工夫がいるよね。

 その点、星野リゾートも面白いホテルや旅館業は昔からあるのに、日本的なおもてなしのテーストを取り入れたりして外国人や日本の富裕層に受けている。元々あるサービスに日本ならではの良さや強みを加えても、新しいものができるんだ。

 「発想次第で、新しいモノは必ずできるぜ」という心意気だよ。もっと日本全体で元気出して、自信を持とうよ。



























































































































































































 
オレの愛したソニー「ソニー社長を引き受けた平井さんは軽率だな」

プレステ生みの親・丸山茂雄が語る迷走の裏側(上)

宗像 誠之 日経ビジネス記者

日経コミュニケーション、日本経済新聞社産業部、日経コンピュータを経て、2013年1月から日経ビジネス記者。

 戦後間もなく発足し、かつては世界に驚きを与え続けたソニーが、今も苦しみ続けている。業績は回復してきたものの、国内外で圧倒的なブランド力を築いた面影は、もはやない。日本人に希望をもたらしたソニーは、どこで道を誤ったのか。長くソニーの歩みを見た経営幹部が、今だからこそ話せる赤裸々なエピソードとともに、ソニーの絶頂と凋落を振り返る。あの時、ソニーはどうすべきだったのか。

 連載1回目は、現在のソニー社長兼CEO(最高経営責任者)の平井一夫氏が経営者として頭角を現すきっかけを作った人物の証言からスタート。ソニー・ミュージックエンタテインメント社長やソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)会長などを歴任した丸山茂雄氏が、本日から3日連続で語る。今回はその前編。

聞き手は日経ビジネスの宗像誠之。

丸山 茂雄(まるやま・しげお)氏。
1941年8月、東京都生まれ。66年早稲田大学商学部卒業後、読売広告社に入社。68年CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社。88年にCBS・ソニーグループ取締役。92年にCBS・ソニーがソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)に社名変更し、SME副社長に。93年にソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)を、SMEとソニーの合弁で設立し、副社長に就任。97年にSME副会長。98年2月にSME社長に就任。1999年にSCE副会長。2000年12月にSME取締役へ退く。2001年にSCE会長。2002年にSMEを退職し、SCE取締役へ退く。2007年にSCE取締役を退任(撮影:陶山 勉)

ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の社名がこの4月から、ソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)に変わりました。SCEの立ち上げに携わり、副社長や会長などを歴任した丸山さんにとって、20年以上の歴史を持つSCEの社名が消えたことに寂しさを感じますか。

丸山氏(以下、丸山):別に何も感慨はないよ。社名を変えたけりゃ変えろ、と思うだけだよ。「プレステ(プレイステーション、日本では1994年発売)」という製品名にはこだわりがあって思い入れはあるけれど、SCEという社名については、そうでもないから。確か最終的に、ソニーの偉い人の誰かが「SCEがいい」って言って決まったんだよな。

 SCEが設立される時、「ゲームというおもちゃを作る会社なのに、社名に『コンピュータ』と入るのは、いかがなものか」という意見があったんだよね。プレステの「プレイ」という単語も英語では幼児用語の位置付けで、そんな上品じゃない言葉なんだって。

 だから「製品にプレイなんて付けるのはやめろ」とも言われたんだけれど、押し切った。SCEもプレステもそんな感じで、頭の固いソニー本体の大勢が反対する中で発足したんだ。「名前にプレイと入ったおもちゃなのに、コンピュータという言葉を社名に入れるなんて、大げさすぎる」などと言われて、後ろ指をさされていたんだよね。

 社名とか製品名とか、命名した当事者は思い入れあるだろうけど、次の世代にとってはどうでもいいんじゃないかな。だから今、経営している人たちが変えたければ、変えればいい。

 それで、4月からSCEは、ソニー・インタラクティブエンタテインメントになったんだっけ?コンピュータ単体でゲームを楽しめるだけでなく、インタラクティブなサービスを提供し始めているから、社名もその通りにして分かりやすくしたい、ということでしょ。

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佐山 展生

「創業時と違い、学歴や偏差値も高い人が多くなって、頭が固い人が増えていった。でも、いいソフトや作品を作る人をマネジメントできる人材って、必ずしも学歴や偏差値の高さは関係なくて、むしろ必要としないのよ」とのこと。学歴や偏差値は、「予め解のある問題」を効率よく解く能力の尺度にはなるかも知れないが、無から何かを見出したり、人を動かす能力の尺度とはなり難い。

朝倉 祐介

肯く部分が非常に多く、大変参考になる内容だけに、恣意性を感じるタイトルの付け方が残念です。
本文を読めば、決して懐古趣味で語っているわけでもないことは伝わるのですが、インタビュー内容の一部分を切り取ったタイトルだけを見ると、あたかも奮闘している現役世代を批判する旧世代のように見えてしまいます。それはインタビュイーにとっても本意ではないと思うのですが。

それはそれとして、日本の技術者の中でのハード偏重はいつも感じることです。
例えば当のソフトウェアエンジニアやウェブエンジニアまでもが、自分たちの仕事のことを「ものづくり」と称することを、常々奇異に感じています。
目に見える「モノ」を扱っておらずとも、十二分に意義のあることをしているのだから、何もハードウェアの言葉を借りて自分たちの仕事に対する矜持を語らずとも良いように思います。そうした物言いになんとなくハードウェアとソフトウェア間の序列意識を嗅ぎ取ってしまいます。うがち過ぎでしょうか。

和田 洋一

マルさんの真っ当な話。
こういう事を説得力をもって言える人が宝なんですよね。

「コンテンツやソフト分野が分かる、分からないという言い方をよくするよね。これはね、完成した映画や音楽、文学の良し悪し、面白いか面白くないかが感覚的に分かるということじゃないんだ。ポイントは、どうやったらいい作品、面白い作品を完成させられるか、というプロセスをマネジメントする方法が分かっているかどうかなんだよ。」

「あの人の言うことはよく理解できるから、信じて従おうとか、あの人はやっぱりポイントが分かっているよな。だから信用して、ついていこうみたいな共感というか。自分との一致点を部下に感じてもらえないと、大きな組織のリーダーシップはとれないんだよ。」

斎藤 陽

「井深(大、ソニー創業者)さんや盛田(昭夫、ソニー創業者)さん、大賀さんといった創業者世代が率いていたソニーが元気だったのは、その頃のソニーに集まった人が、頭がいいだけじゃなくて、度胸もあったからだよ。いわゆる今の有名大学を卒業したような優等生ではないからさ。2000年くらいに、続々と引退していった創業者世代を知る人たちがすごかったんだよ。」

私の父はまさにこの世代。1960-70年の10年間ソニーにデザイナーとして在籍していた。元々がビクターからの転職。大賀典雄さんがデザイン部長から取締役になり、父に課長になれと言われて辞めたそうだ。当時私が父にソニーを辞めた理由を訊いたら「ハンコ押しになっても面白くない」と言われたのを覚えている。小学校一年生の私には何のことやら訳が分からなかった。父は俺はデザイナーなんだと言って自分の名前のデザイン事務所を設立した。

本記事の丸山さんの話はつまり、父が言っていた「ハンコ押し」みたいな人がソニーに残り、「ハンコ押し」なんかやってられるか、という人がソニーから離れていった結果なのだと、父の話と一致する。

佐渡島 庸平

本音で話す人は、面白い。コンテンツが分かるというのは、いい作品を見分けられるのではなくて、作品を完成させるプロセスをマネージメントできるかどうかという定義には、共感。

大西 康之

富士通が富士電機を超え、ファナックが富士通を超えていったように、SCEがソニーを超えていくべきだった。SCEをソニーに取り込んでしまったため、コンテンツがわかる人たちがTシャツ、Gパンからスーツに着替え、会議室に閉じ込められた。あそこが悲劇の始まりだったと思う。

夏野 剛

出井さんの後に久夛良木さんではなく、度胸と直感のないイギリス人を据えたのが、最後のチャンスを潰した。本当にもったいない。

若林 秀樹

大賀さんあたりから微妙だった。
本来は、森園さんになるところを、クーデター(ここでは、品位に欠けるから書かないが有名な話)でおろし、出井氏がなった。
出井氏は、単に個人的な盛田さんとの関係。
ソニーは立派そうな会社で、中小企業的。個人やトラブルが多い。
そういうトラブルをかたずた人が出世する。

出井氏のあとも、実は久多良木さんの可能性があったが、それもクーデター的にダメになった。
久多良木さんは、半導体(C)とソフトコンテンツ(E)で、既存のソニーを潰し、新しいソニーを作るつもりだったが、骨抜きにされた(というか騙された?)
ソニーには3つ位の顔がある。
①皆がしっているスマートなソニー
②実は機械屋的、材料屋的な泥臭いソニー
③**ハラなどなんでもありの中小企業のソニー

皆さんが好きなのは①、私が好きなのは②

それにしても久多良木さんは頭がよく取材が大変だった。アーキテクチャーの話。半導体の話はOK。長崎から帰りの飛行機で一緒に話して、技術屋だけでなく、ビジネスとしても超一流だと思った。一昨年くらいが最後だったが、だいぶ丸くなり、だいたい話を理解できるようになった。

「今のソニーの人材には度胸がない」
「平井さんが社長受けたのは軽率」

度胸がある事と軽率の区別は難しい。平井さんは度胸があるから社長受けて、苦労しながらも黒字化を達成した様にも見える。

高宮 慎一

丸さんとは、投資先のゲーム会社で社外役員としてご一緒させて頂き、色々勉強させて頂いた。
本文中の、(クリエイティブが源泉ででも、ビジネス的にも売れる)「ポイントは、どうやったらいい作品、面白い作品を完成させられるか、というプロセスをマネジメントする方法が分かっているかどうかなんだよ。」ということは常々いっていた。
そして、印象深いのは、「クリエーターはわがままな異性と一緒。どんなに揉めても、お前を信じて愛していると伝え続けて、ずっと寄りそう」ということをおっしゃっていた。クリエーターのみならず、起業家をはじめあらゆるクリエイティブな人材に共通だと思う。

ソニーにはウォークマンなど、世界中で一世を風靡した製品を生み出してきた歴史があります。その点で日本人にとってソニーは特別な会社だと思いますし、それだけソニーの経営は難しいようにも感じます。丸山氏(以下、丸山):ソニーという会社の経営の難しさと凄さは、一つか二つのヒット商品があるかないかで、売上高や利益が大きく変動しちゃうことなんだよ。今は映画や音楽、金融、エレキと、事業ポートフォリオが広がっているから、その影響は昔より小さくなっているけどさ。逆に言えば、それだけ昔のソニーは大したもんだった。

 例えばトリニトロンのテレビが売れたとか、ウォークマンを作って売れたとか。後はCDを作ったとか、プレステを生み出したとか。総合力というよりも、ごくわずかなヒット商品頼みの経営を切れ目なく続けて、ここまで成長してきたんだ。少数のヒット商品というよりも、いろんな事業を展開して総合力で成長してきたプレーヤーが多い日本の電機産業の中で、ソニーは異質な存在だったわけだ。

 1種類の商品がバカ売れして何兆円も売り上げてきたソニーのような会社は、日立製作所のような総合力の経営というわけにはいかない。「これがいけるんじゃないか」「これが当たればソニーはまた大きくなる」という、盛田さんや大賀さんみたいな抜群の先見性があって、鼻の効くカリスマが頑張らないと経営できない会社だったんだよ。けれど平井さんだけじゃなくて、大賀さんの後のソニーの経営者って、そういう能力がなかったよね。大賀さんは「鼻が効かないやつはダメだ」ってよく言っていたんだよ。創業者世代は、鼻が効く経営者をうまくつないできたけど、大賀さんの後はそうじゃなくなった。

丸山さんは、出井さんが当初、プレステには反対していたと話しました。その後、プレステが大成功する中で、出井さんとの関係は変わりましたか。

丸山氏(以下、丸山):彼については、あまり多くは語りたくないな。

言えるのは、ソニーの財務的な負担になっていた、当時の米ソニー・ピクチャーズエンタテインメント(SPE)のトップ2人をクビにしたこと。これは出井さんの功績だよ。当時、米SPEで彼らが放漫経営をしていて、ソニーの負債を増やす要因となっていた。これは書籍にもなっているから多くの人が知っている話だけれど、米SPEの経営はその米国人2人に任せっきりで、盛田さんと大賀さんも2人を気に入っていたから、それまでは改善できなかった。その2人を出井さんが切った。これは、出井さんが10年くらいソニーを経営して、みんなから評価された功績じゃないかな。ほかの出井さんの評価は、その後のソニーを見れば言わなくても分かるでしょ。

具体的な話はできないけれど、太平洋戦争の時の日本の軍隊は、兵站がボロボロだった。そういう部分をしっかりやってないと戦いは長続きしない。大風呂敷を広げるだけじゃだめで、兵站をしっかり整えていないと戦略は進められない。日本は戦略が弱くて、全て戦術になっちゃう。ロングレンジで考えられないんだよな。出井さんは結局、短期的に利益や株価を上げようとしていた。だからソニー社長時代の前半は調子良く見えた。「株主重視」と言われ始めた当時としては最新の経営トレンドをいち早く取り入れることに成功したよね。出井さんが掲げた「時価総額経営」も当時の流行だったし。

けれど、自分なりの価値観や軸がなかったから、戦略があったわけではなく、トレンドに乗っかるだけになってしまった。短期的には業績も株価も上がったけど、次の成長の種が見つからなくて長期的に低迷した。 それは、ソニーだけじゃないけどな。さっき言ったように、日本に軍隊があった頃から、日本人は戦略を作れない。だからほかの日本企業も似たり寄ったりだよ。最近だと東芝も同じだな。あそこはもっと極端で、短期的に利益を上げるというより、よく見せかけていただけなんだけど、そんなことをしていても、長期的には無理がきてうまくいかなくなる。そこまで見通せてなかったんだろな。2016/05/17 日経ビジネス<完>

  ソニー経営者に告ぐ!~君たちは恥ずかしくないのか~

2015/06/23 伊庭保・元ソニー副社長

 社内取締役が平井社長と吉田憲一郎副社長の2人し かいないのもおかしい。 以前は、取締役CTO が存在し、それがエンジニアの大きな旧標にもなっていた。だから、まず今年1月に社長や取締役会らに『 最適な経営機構を求めて、みんなで助けようっ― ソニー』といヽ つ タイトルの意見書を出し たのです」 ――最も訴えたかったことは。 「一つは、エレクトロニ クス事業について専門知 識と情報を持ち、ソニー スピリツトを体現した人 材を取締役に選任させる ことです。その抜擢によって、取締役会の機能強 化と活性化を図ることが 狙いです。もう一つは、 この新取締役会が生まれ るまで、エレクトロニク ス事業の専門家による助 言機関 ( 諮 ‥ 問委員会)を 設けることです。 社外取締役についても まずいソニーを心から愛 しているという人を集めるべきです。ソニーをどれだけ愛しているかとい うことが、ソニーの取締 役となる要件でなくては いけないと思います。具 体的にはい少なくともソ ニーの 製品のファンであってくれること。アツプル創業者であるスティー ブ・ ジヨブズも似たようなことを言っているのです。社外取締役候補の選 定をコンサルタントに頼 っている現状で、そのことがどこまで問われているのか、大いに疑間です」

不安を煽るだけのリストラ

――それにしても激しい提言ですが。
「ソニーが輝いて、ユニークな会社であったのは 過去のことになってしまった、という危機感が背 景にあります。いまやその魅力は薄れてきた。それは現経営陣たちの首をかしげたくなる人事政策 に問題があります。長引 いたリストラで人心は荒廃しました。社員の士気を保つために、経営陣は 様々な手を打ったでしょうが、効果が上がったとは思えません。とんがった人材、 あるいは『 奇人、 変人』――特異な才能を 持っている人材を意味する言い方で、私の好きな表現です――が去っていく流れを止めることがで きませんでした。
 だらだらとリストラを 続けたことはあまりにも 稚拙でした。リストラで浮上した他の企業は『 1回だけやるので、残った社員も辛いかもしれないが、我慢してほしい』と踏みとどまる者の士気を支えている。創業者の盛田昭夫さんでもリストラはやったかもしれませんよ。でも、やったとしても『これで最後です。ここから頑張りましよう』と言ったに違いないと思いますね。今のソニーのやり方は、残るものの不安を煽るだけです。今後の人材確保のためにも、リストラの後に、夢のある魅力的なビジョンが見 えなければなりません」

――伊庭さんは東大法学部卒でエンジエアではありませんよね。

「最初は役人になるつもりでいたのです。思い直 したときには大企業の採用試験は終わっていて、 大学の先生から勧められたのが創業からまだ13年のソニーでした。 東京通信工業から社名変更した翌年の1959 年春に入社したのですが、3年間は″ 新人研修″ ということで、製造部門 で仕事をしました。’85年 から’88年に資材本部長も務めましたから、モノ作りの現場に近い経験はあります。学生時代はソニーに入社したいと強く願っていたわけではなかったけれど、入ってみたら毎日、仕事が本当に楽しかった。 創業者の盛田さんとは、製造部門の次に配置された、現在の法務部に相当するところで契約や特許関係の仕事をしていたとき、直接ご一緒する機会がありました。 盛田さんは私たちに宿題を出すのです。それをこなして報告すると、『よくわかったよ、君』と褒めてくれました。褒められると勇気百倍でしたね」

――褒め言葉もトップの 役割ですか。
「モノ作りの人はなおさら嬉しかったでしょう。 『こんな商品がほしかったんだ―』 という井深(大)さんや盛田さんの笑顔でみな頑張るのです。いまは断絶したソニースピリットはそんなところから生まれたのだと思います。ソニーには年研究開発会議、略して研発と称する会議があって、エンジニアは鉾々たる技術系役員の前でプレゼンテーシヨンをしていたわけです。社員はみんなすごく 緊張してね。とても厳しい指摘があるわけですよ。しかし、それがまたみんなの刺激になるという好循環があった。役員の側も『 現場が面白いも のを持ってくるぞ、いや、そうでないと許さん』と いうくらい楽しみにしていたものです」

出丼時代からおかしくなった

ーーーそうした闊達な空気を、後継者たちは受け継 ぐことができなかつ たのでしょうか。
出井さん以降のトップは 、次のヒット商品を生む技術のシーズ(種)を見分けられなかったと思うんですよ。 出井社長やハワード・ ストリンガーCEO時代になると、技術がわからないからトツプからの指摘があるわけでもなく、お互いに情報を共有するぐらいの会議になった。 とくにハワード時代には『難しくてわからないからもつと簡単にしてくれ』と言う。簡単にしてもまだわからないので、『 トップ向けの取扱説明書を書いてるみたいだ』と自嘲するエンジエアまで出てきた始末です」

――ご自身も、その時代を直接ご覧になった経営トップの一人ですね?

「 私は’95年にCFOに就し、99年に退任(その後取締役副会長)しました。大賀典雄社長から出井社長の時代ですが、出井さんが『 り・ジエネレトション( 第二の創業と言い出したころからおかしくなった。 彼は森尾氏をCTOに据えたけれども、CTOを活かそうという気持ちがなく、技術系を経営から遠ざけていく雰囲気ができていったと思います。結局、CTOという 存在自体がいつの間にかなくなってしまった」

私は言いつづける

―かつてのソニーには 技術系の親分がいました。
「異端のエンジエアに人気があったのが、森園正彦副社長でしたね。異なる意見を歓迎し、とんが つた人物を厚木工場に集めて情報処理研究所を作った。親分肌ですよね。 久ラ良木氏のプレステ の例じゃないけども、技術者は上から言われなくても、自分でやりたいものをシコシコやっている。 好きなことを色々やって、その中からイノベーションが生まれてくるわけです。そういう雰囲気を許容する技術家取締役がやはり必要なんです。シーズを育てようという感性を持ったトップですね。どんな現場でも直属の上司というレベルでは、自分のことしか考えない、度量のない人がいる ものです¨全社的な見地で将来の儲けのタネを見つけ育てるCTOのような存在がないといけない」

ーー株主総会を前に、平 井社長に新たな質問を付されましたが、その中で現経営陣の経営責任を厳しく追及しています。「平井社長の第1次中期経営計画( 2012年度 12014年度)は惨愴たる結果でした。この3年間、業績の下方修正は実に6回も行われ、財務上累積で2128億円の赤字を記録しています。これは、12年度にソニー大崎ビルやニューヨーク本社ビルなどを売却した一時的利益計3810億円を含んでのことです。 株主資本比率も低下が続き、ムーディーズは14 年にソニーの信用格付けを1段階引き下げて、投機的等級であるBalとし ました。1958年の上 場以来、初の無配に転落し、果てしないリストラで有能な人材も退社しています。2012年度からの3年間で社員は少なくとも3万1000名削減されているのです。 ソニーの価値を毀損し たうえに、それについて の十分な説明も反省も示さないようでは、トップ としての資質なしと言わざるを得ません」

――しかし、ソニーの株価は好転し、2016年 3月期は黒字の見込みと 発表しています。

「 あれだけリストラをやれば、第2次中期経営計画 (2015年度12017年度)の出だしは良くなるのは当たり前です。課題は、リストラ効果が3年間つづくかどうか。( 先人が開発した)イメージセンサーなどで再生の燭光は見えてきているけれども、第2次中期計画のその後にエレキがどうなるのか、ということです」

―ー2014年には無配 に転落しながら、社長年収は約3億6000万円 ( 基本報酬1億8400万 円+自社株購入権等1億 7520万円)でした。「社長給与が明らかになったとぎ、 平井社長は『 給与を決めたのは (外部取 締役による)報酬委員会です』と人任せのような発言をした。たしかにプ ロセスはそうでしょう が、無配のような事態に直面したら、言い訳しないで自主的に給与を返上するヽそれが経営者の在るべき姿でしょう」

――ソニー再生の見込み はありますか? 
伝説的 なエンジエアだつた大曾根幸三・元副社長は「 『 社 風』なんて言うが、本当 は 『 社長風』があるだけだ。大将の一人か二人替わるだけで会社は変わる」と楽観的な発言もしています。 「(異能・ 異端児は)減ってはいるけれども、優秀な社員はまだたくさんいる。技術者は使いようです。技術系をどんどん引き上げて、チャンスを与えていくことです」

――現経営陣が提言を無視しつづけたらどうしますか。

「 あくまでエレキ復活と技術系取締役の就任を提言しつづけます。来年の株主総会に向けても、また言いつづけますよ」完

   橋本綱夫氏(享年83歳)肺炎で死去  2016年3月12日

元ソニー副会長、元ソニー生命保険会長・橋本綱夫氏(享年83歳)肺炎で死去のニュースが3/23付朝日新聞経済欄に掲載されていました。約50年前、私が厚木工場に入社した時、総務・人事担当課長で面接も受けました。いつもニコニコと穏やかな紳士で、のち本社でトップのアドバイザー、ブレーンとして昇りつめた人でした。2012年10月の「S社友の会・25周年記念の集い」でお会いしました。その時は友の会長として元気でスピーチもされておられ、突然の訃報に驚きました。また、S社中興の祖のひとりがいなくなりました。

 
 



 
 

 「ソニーの想い出」 2015年7月23日

実は私の姉が大賀社長が第2製造部・部長をしていた昭和32年に入社、Aさん、Kさんとは職場のお友達で、小生はまだ短髪でお二人には弟という事もあり優しく(坊やの様に)接してもらいお二人には定年まで、いえその後もずっとご挨拶をさせてもらっています。

とてもSKさんの様にはなれません。そんな訳で大賀社長とはプライベイト感覚でお話が出来、大賀さん(私は肩書・社長を付けて呼んでいませんでした)は会う都度に姉はどうしているのか聞かれ、ある時の会席では姉でなく私の事を聞いてくださいと、Aさんの携帯で姉を呼び出し大賀さんと直接に話してもらったこともあります。

井深会長とは早くにつくば科学万博の招請でNZ, フィジー、トンガと訪問、奥様共々麻雀に興じ(息抜き)たり、その後はインドネシアのコーフィーをお土産でお届けしたり、小生スエーデン駐在中はEFTA Mission 代表でられた折は奥様も来られず、Kさんから今度はお父さん(お爺ちゃん)のお付が誰もいないからよろしくねと連絡をもらい、同室の部屋に泊まり身の回り洗濯物、お茶入れ、雑談相手とお世話をさせてもらったこともありました。今は昔の話の想い出、その他諸々沢山の事が浮かんできます。 SKさんの 「ソニーへの愛着と郷愁は捨てがたい男」 につられ同じような気持ちで私も書いてみました。(OB ・NK氏提供)

 




 「2015年度3月 ソニー株式総会」のコメント 2015年6月29日

ネットワークからの下記メールに暗澹たる思いです。S社の凋落はどこまで続くのか?
soni-さん曰く、「もう誰もソニーに期待もしてなければ復活するとも思っていないしサジを投げてるのがソニーの実態だ!」ですが、一部から先般行われた株式総会についての談話が下記のとおり入ってきておりますのでシェアまで。

Mr.T(一度退社し起業してソニーに買い取られた億万長者)コメント:
“私にとってはこれほどムナクソの悪い株主総会はさすがに初めてでした。危機感も緊張感も反省もなく、真剣なる復活のための戦略やそのための知性や志も感知することができませんでした。
よほどの理由がない限りは2度と出席したくない類いの総会です。もっとも、それも先方の作戦かも知れませんが。先達が遺した資産を目先益出しのために売り払い、残るは本業(エレキ)の切り売りしかなく、その先は知らぬという低次元の態度がよく理解できました。”

伊庭保(元副社長)コメント:
発表した範囲で、いかに格好よく言うかに終始していた。設立趣意書に触れたが、取ってつけたような感じ。企業価値が毀損されたという危機感がなく、楽観が支配。質問状に対する答えは期待してなかったが、一括回答もなく、手を挙げても指されなかった。言ってることと裏腹。
だったそうです。 遅きに失した話ですが、もう我々の愛したソニーは遠い昔ですね。
http://toyokeizai.net/articles/-/71697

   盛田昭夫「グローバル・リーダーシップ」へのコメント 2015年6月10日

「その一言で胸のつかえが取れた」という久夛良木は、後日、「こういうものを作りたい」と1枚の紙を徳中に見せている。そこには「3次元グラフィックスをリアルタイムで生成する」というコンセプトと、その基本アーキテクチャーが描かれていた。「隠し球」を表に出した瞬間だ。「その時点で<プレイステーション>の基本構造は、すでにできていたわけです。しかも安く、誰でも使えるように。僕は技術者ではないですが、あれはすごいと思った」、と徳中は述懐している(注6)。

 そして運命を決する日がやってきた。92年6月24日、任天堂との交渉決裂を受けて、ソニーの今後の方針を決定する経営会議である。まさに「あの日は瀬戸際」(久夛良木)だった。なぜなら、任天堂との共同開発は完全に頓挫。会議に出席している役員のほぼ全員がゲームなんてソニーがやるべきじゃない、という意識で凝り固まっていた。しかも、「任天堂の互換機とは別に、3Dのコンピュータ・グラフィックスを採用した独自方式を開発している」とは言ったものの、「頭の中では描けていたが、モノとしては何もない」状態だった。

 そこで、懸命に技術の可能性を説きながら、「任天堂にあれだけのことをされて黙っているおつもりですか!」と誇り高いCEO大賀典雄社長の怒りに火を付けた。「このまま引き下がるんですか!」とさらに煽ったとき、大賀は久夛良木の顔をじっと見据えて、「そんなに言うのだったら、本当かどうか証明してみろ」と述べ、「Do it!」と言葉を発しながら手で机を叩いた。有名なエピソードだが、事実であり「ドラマティックな瞬間だった」。久夛良木は「いろんなノイズを打ち消すために、俺は決めたぞという意思を、『Do it!』というかたちで表明、全員に通告したんだと思う」と経営トップの仕事ぶりを、実感したという。(つづく)

   盛田昭夫「グローバル・リーダーシップ」へのコメント 2015年6月10日

当時は、リアルタイムで3D-CGを生成できる市販のコンピュータはなく、ハリウッドでは専用の高価なグラフィックス・ワークステーションを多数導入して、数秒の映像を描画するために何十時間も費やしていた時代だ。久夛良木は、自らの着想に磨きを掛け、技術を掘り下げ、「新たなエンタテインメントのドメイン(領域)を、世界中の家庭に普及させる」という大目的に向かって邁進して行く。

「まず始めたのは、ソニーの社内に限らず、世界中から最高の頭脳・才能を集め、当時のベストプラクティスのさらに一歩先を狙って果敢にチャレンジすることにした。常識にとらわれていたら、イノベーションなんて起こせない。容易に手に入るようなソリューションをかき集めても、世界を大きく変えていく革新的なダイナミクスは引き起こせない」(注3)。驚くべきことに(言葉通りというべきか)、彼は会社の現行の業務と並行して、大目的に向かう「隠し球」に磨きをかけていたのだ。

瀬戸際で「Do it!」を引き出す

「おれはだんだん久夛良木に洗脳された」と笑う丸山茂雄(元ソニー・ミュージックエンタテインメント社長。当時CBSソニー・グループ取締役)は、次のように語っている。「久夛ちゃんはすごいヤツだよな。だって社内で密かに隠し球を磨きながら、まずは他社との共同開発で実績を積み上げようとしていたわけでしょう。ただ、そのプロジェクトが頓挫してしまうことで、隠し球を見せるタイミングが予想外に早く来てしまった」(注4)。

 89年に久夛良木は、任天堂のゲーム機「スーパーファミコン」用のPCM音源チップの制作に携わり、その後、スーパーファミコンのソニー製CD-ROM互換機の開発を行っていた。「任天堂と共同で、90年代に家庭用コンピュータのインフラを構築し、そこにソニーのAV技術を有効にリンクさせる」、とその時は考えていた(注5)。

 ところが、91年5月末に任天堂は突如、フィリップスとCD-I(対話型CD、後にCD-ROMに切り替わる)で互換機を共同開発すると発表。任天堂がソニーにイニシアチブを取られることを恐れたためだが、両社の関係はここからこじれ、1年間の交渉を経て決裂した。この時、ソニー本社の経営戦略グループ副本部長として、契約書の実効性などを調べていたのが徳中暉久だった(後にソニー・コンピュータエンタテインメント社長、ソニー副社長/CFO)。

 ソニー社内が大騒ぎになっていた頃、当初の構想が崩れこれからどう進めるべきか悩んでいた久夛良木に、徳中はこんな一言を発している。「あなたは何がしたいの?」。そしてこう続けた。「やりたいことがあるなら、他人の土俵ではなく、自分の土俵でやったほうがいい」。

   盛田昭夫「グローバル・リーダーシップ」へのコメント 2015年6月10日

ソニーと映画とスティーブ・ジョブズとの因縁

 80年代初期に、VTRのシスコン(システム・コントロール)を設計していた久夛良木は、アナログ・エンジニアの下で便利屋のように扱われることに辟易とし、専門のデジタル信号処理を活かす道を模索していた(当時のソニーはアナログ・エンジニアの王国でもあった)。

 そこで、人脈をたどり自ら働きかけて、放送機器事業の拠点、厚木工場にある情報処理研究所への異動が実現したのが、プレイステーション発売の10年前、84年のことだった。86年の夏、SIGGRAPH(シーグラフ:コンピュータ・グラフィックスの国際学会)に出席した久夛良木は、最終日に上映された3D(3次元)CGのアニメ映像に釘付けになった。

 それがCGアニメーターのジョン・ラセターが作った『ルクソーJr.』(電気スタンドのキャラクターが自在に動き回る画期的な作品)だった。実はこの年の2月、アップルを追放されていたスティーブ・ジョブズが、『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカス監督率いるルーカス・フィルム傘下のCG部門を買収。同部門のマネジャーであり、コンピュータ科学者でもあったエド・キャットムルと共にピクサー・アニメーション・スタジオを創設し、共同創業者となっている。『ルクソーJr.』は、そんな新生ピクサーの出発点となる記念碑的作品であり、キャラクターは同社のシンボルともなっている(注2)。

 久夛良木は、『ルクソーJr.』の「魔法のような表現力に感動し、いつの日か、これをリアルタイムで動かすことができる家庭用コンピュータを、自分たちの手で世界中の家庭に届けたいと夢見るようになった」と言う。プレイステーションの構想は、このピクサー体験をきっかけに生まれたものだ。改めて思えば、ソニーと映画とジョブズ、それら3つの衛星が盛田を核に、不思議な因縁でつながっていた。

 話を戻そう。情報処理研究所には、米国の工科系大学から戻ったばかりの気鋭のエンジニアや若くて優秀なデジタルの才能たちがひしめいていた。そのなかで、久夛良木は<システムG>を発見する。これは3D-CG映像にリアルタイムで様々なエフェクトを加味できる技術で、まだテレビ画質だったものの、これを活用すれば「リアルタイムのコンピュータ・エンタテインメント」を実現できるのではないか、と閃いた。

   盛田昭夫「グローバル・リーダーシップ」へのコメント 2015年6月9日

「いくぜ、100万台」!

 ソニーとは何だったのか、あるいは何でありうるか――。

「歴史とは、過去と現在との対話である」とは、歴史学者E・H・カーが著書『歴史とは何か』(岩波新書)で幾度も繰り返す名言である。翻訳した社会学者の清水幾太郎は、「現在というものの意味は、孤立した現在においてではなく、過去との関係を通じて明らかになるものである。したがって、時々刻々、現在が未来に食い込むにつれて、過去はその姿を新しくし、その意味を変じて行く」とし、歴史は「現在が未来へ食い込んで行く、その突端に私たちを立たせる」と解説している。

この連載はソニーの共同創業者の一人で、経営を担い「世界のソニー」を築き上げた盛田昭夫を、その人となり・フィロソフィー・方法論をベースに描いてきた。今回からは総まとめとして、ソニーの成功メカニズムを振り返りながら、現在に至る凋落のメカニズムにも触れていきたい。後者については、「かつてあれほど輝いていたソニーが、なぜこれほどの体たらくとなったのか」という読者からいただいた問いにも、筆者なりに答えるつもりだ。

ソニーが過去形で語られる存在となるのか、それとも再び未来へ向かって飛び立てるのか。「すでにチャンスの窓は閉じられた」と否定的な見方をするアナリストや関係者も少なくない。刻々と未来に食い込む現在という時間の突端に立って、私たちは日本が生んだグローバル企業が衰退し消滅、もしくは瓦解する(中国企業などに買収される)姿を見るのか。それとも、IBMやゼロックス、アップルのような、存亡の淵からの奇跡的な復活劇を観ることができるのか。

 事態は重大な局面にある。

この問題を考えるときに、どうしても押さえておきたいソニー“最後”のイノベーションがある。1994年12月、「いくぜ、100万台」の掛け声ともに発売された「プレイステーション」。5人の小学生が正面を向いて、真ん中の1人がコントローラーのボタンを押す瞬間の広告写真が熱く印象的だ。その開発とマーケティングそしてインダストリー化が、それである。

 ハーバード・ビジネス・スクールの著名教授クレイトン・クリステンセンは、「ほとんどの企業にとって、破壊的イノベーションは多くても一度きりのできごと」だが、「ソニーはわれわれが知る唯一の連続破壊者である。1950年から82年の間、途切れることなく12回にわたって破壊的な成長事業を生み出した」と指摘している(注1)。

そして破壊的成長を生み出すプロセスを「破壊的成長エンジン」と名付け、まだ完璧に作り上げた企業はないのだが、往時のソニーにはそれに近いもの(明確なシステムとして埋め込まれてはいなかった)があったことを暗示している。その時、「最も重要なものは、CEOまたは同等の影響力を持った非常に上級の役員」の存在であるとする。

http://www.dhbr.net/articles/-/3316





























 
 盛田昭夫「グローバル・リーダーシップ」へのコメント 2015年6月2日

私も韓国駐在の際に、社員はもちろん、外部(特に大学)にてソニー物語をする機会がありました。みんなが聞きたがっていることは、上から目線の成功物語ではなく、どういうビジョンを貫徹していたのか、その仕組みはどういうものか、リーダー以外の部下たちの受け止め方と評価はどういうものだったか、苦境に直面した際にどう対応して乗り越えたか、といった点でした。盛田さんがグローブ社からのOEM注文を断った経緯も話しました。

漢陽大学ではビジネス界のリーダーに対する3か月の講義(MTO)だったので創業時のエピソードに関心を示されました。明知大学では理事、評議員への講演だったので、大学の学部教育においては専門教育や職業直結の実業教育でなくリベラルアーツ(教養学)が極めて重要であるので大学を改革すべし、と訴えました。また同大学の理工学部生にはグローバル企業に就職し活躍できる人材とはどういうもので普段からどんな努力をすべきか、を話しました。彼らは国内の就職機会が限られているので真剣な質問が相次ぎました。

リーダーシップ、グローバル人材という言葉だけが独り歩きしており誤解が蔓延していることを危惧しています。 リーダーシップには先見性、構想力、統率力、人格、能力などが強調されますが、支えてくれるスタッフ、組織のメンバーなくしては何もできません。ソニーも盛田昭夫さんの夢を実現し彼を男にしてやろう、井深さんの喜ぶ顔が見たい、と頑張る縁の下の存在が重要でした。 同様にグローバル人材とは、語学力、国際性のことではありません。韓国では幼児から英語を学ばせる教育熱です。三星では、人事担当役員から「Sさん、三星グループ社員は優秀で英語は問題ありません」とのことでしたが、実際に接してみると試験、TOEICでは高得点を取るテクニックだけある人が採用されていただけ、と判りました。

日本でも、小学生から英語を義務化する動きになっていますが誤っています。先ず、しっかりした母国語を徹底的に訓練すべきです。挨拶、商談、会議、プレゼン、報告書、メール文書が日本語でまともに出来ない日本人が多すぎます。全員を帰国子女のように英会話が出来るようにさせたいのでしょうか? 通訳は多くは要りません。盛田昭夫さんのように英語は上手でないが、相手の主張をよく聴き、相手の置かれている状況をいち早く察知し、自己の体験、確信から異論、反対論でも相手を説得させ、その上 ファンにさせる、という人がグローバル人材です。

長々となりましたが、ソニー物語を必死に勉強し自分なりに消化して自分の共感できる事項のみを話すとみんな真剣に聴いてもらえたことを思い出します。100枚以上のパワーポイント資料を作りましたが、それよりも聴衆の目、表情を見ながら静かに 情熱をもって、真摯に話しかけることが一番説得力があることを体験しました。MS氏提供)

  盛田昭夫「グローバル・リーダーシップ」『週刊ダイヤモンド・ハーバード ビジネス レビュー』 2012年11月号

最近、盛田昭夫さんの「グローバル・リーダーシップ」についての論稿を見つけて読みました。著者は、森 健二という元『週刊ダイヤモンド』記者で今は、富山県の山里でジャーナリストをしている人です。 月刊誌『ダイヤモンド ハーバード ビジネス レビュー』に2012年11月号から毎月連載されました。第15回の連載(2014年1月号)までPDF(容量が41M)にてお送りします。私も初めて聞くエピソードも沢山入っています。 なお、第16回以降はダイヤモンド社のHPで発表が継続していますので、http://www.dhbr.net/ にてお読みください。かなり長い連載になっていますので驚きます。(MS氏提供) 

  ソニー・キットOB会(川上グループ)の集い開催 2014年6月13日(金) 18時 有楽町 「さがみ」

S社現役時代、厳しいビジネス環境下の開発途上国で「キット(現地)生産」に関わったテレビ、オーデイオ事業部、旧外国部からなる「キットOB会」は15年以上継続しているユニークなメンバーの会です。先日、約半年振りに集まりました。3時間、飲む、食べる、語るパワーはまだまだ衰えを知らず健在です。
  ソニーはもはや『蘇らない』 2014.03 選択

ソニー関連情報をお送りします。やはり残念なニュースです。出所である「選択」という月刊雑誌は年間契約の購読者しか読めないオピニオン誌です。 本屋さんには売っていないものです。長年、時折チェックしていますが記事の信頼性は高い真面目な雑誌です、執筆者の名前を明かしていないのはこの雑誌の方針です。おそらくは業界関係者で見識の高い信頼できる人が 覆面で書いています。それだけに信憑性が高い記事が多かったです。今回の内容はスマホでもサムスン=グーグル連合に潰されるだろうと観測しています。(ソニーOB・MS氏提供)

二〇一四年二月六日、ソニーの平井一夫社長は、「バイオ」ブランドで一世を風靡したパソコン事業と長年にわたつて同社の屋台骨を支えてきたテレビ事業の売却に加え、五千人もの人員整理という大リストラ策を発表した。これまで手を切れなかつた赤字事業をよヽつやく切り離し、経営資源をスマートフオン タブレツト端末などの成長分野に集中投下する、遅ればせながらの「再生案」だが、市場の評価は決して芳しくない。

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橋本元副社長 イン インドネシア    2014.04.03

コタのあの店、よく行きましたね。ポンドック・ラグーナです。大きな魚を油で揚げた料理は絶品でした。骨や尻尾まで食べられました。

http://blogs.yahoo.co.jp/jakarta_oyaji/31048168.html

このブログに店の看板とこの魚が出ています。橋本さん(当時は人事役員?)が来てみんなで市内にある伝統的な王宮料理屋(ただし味はいまいち)で食事をした時の写真を送ります。名物は後ろに並んだ料理のサービスをする人たちでした。手塚さん、シンガポールでHRをやっていた人、ちょっと隠れていますが、宮田さん、片山さん。手前で後ろを向いている人は誰? また行きたいものです。(OB TI氏提供)               

 
 
 
 
今ちゃんの送別会  2004年3月26日

S社現役時代、ボゴタ、コロンビアやパナマなどで最も公私にお世話になったサービスマンの今さんの退職パーテイに
参加しました。34年間のS社在籍中に会った最高の技術者、人格者のひとりでした。確か、横須賀市に住んでいると
聞いていますが、あれ以来、会っていません。きっと、彼のことだから仕事に家庭に大成功していると推察しています。
会う機会があればぜひ会いたいOBです。また、同じく中南米で一緒に仕事をした、若くして亡くなった経理・財務の専門家・
黒田さんも写っており懐かしいです。(OB TI氏提供)

  ものづくり敗戦 ~数追えず「感動」も生めないソニー~  2014.3.29

構造改革頼みの後ろ向き経営、ソニーは、普及価格帯の製品開発に注力し、販売数を追った。しかし、テレビ事業は10年連続の赤字、得意とした「感動」も生み出せなくなった。ソニー平井一夫社長は、常々WOW!!といえる感動の製品について語る。業界が注目する1月の米家電見本市「CES」でも、2月の携帯見本市「MWC」でもこの言葉を繰り返したが、長年「ソニーらしい製品」を出せていない裏返しでもある。

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「わが社」は、いつから人切りと不動産販売が本業になったのでしょうか? 何回もこれが最後だ! という掛け声で手術をして命だけ生きながらえています。 元気になったらどういうことをやりたい患者(ソニー)さんなのでしょうか?
ビジョン、夢、世間に貢献したい志はあるのでしょうか? そろそろ延命装置を外す時期に来ているのでしょうか? 残念至極です。(ソニーOB・MS氏提供)
   ソニー撤退の深い爪痕 「週刊東洋経済(2014. 3.15号)

人口5万5000人の地方都市、岐阜県美濃加茂市にとって、それは激震だった。2012年10月、約2,700人が働く市内随一の就業先であるソニー子会社のソニーIEMCS 「美濃加茂サイト」が、2013年3月末での工場閉鎖を発表。同市幹部もこの日の発表で初めて知ったほどの突然の撤退劇だ。
ピーク時に約4,500人が働いていた同工場は、外国人労働者を積極的に受け入れた。美濃加茂市の外国人比率は一時11%と、国内有数の外国人集住都市となったのである。(以下、略)
(ソニーOB・MS氏提供)

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ソニー非常事態 ~パソコンで終わらない切り刻まれるソニー~ 「週刊東洋経済」(2014.222号)

ソニー苦境の記事が載っていましたので共有させて頂きます。 こちらは「週刊現代」より少し真面目な内容です。驚くことに盛田本家の財政事情の悲惨さまで書かれています。 企業年金が減らないように念じつつ、、、(ソニーOB・MS氏提供)
本文より:パソコン撤退、テレビ分社化、事業や資産の切り売りはいつまで続くのか。
「早期退職制度について説明します」---。2月7日午前10時半。東京・品川のソニー旧本社ビル(御殿山テクノロジーセンターNSビル)8階の会議室に集められた約30人の社員達は、3月中旬に開始する早期退職支援制度の募集対象となったことを告げられた。(以下、略)

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(前列中央が山田氏)
 ソニー・OB会(開発途上国を愛する会)山田Qさんを囲む集い開催   2014年2月27日(木) 18時30分 横浜
中華街 「重慶飯店新館」

3週間前、2月6日(木) 同会は開催したばかりでしたが、古い会員の山田文久さんが北九州から上京することで急遽参集とになりました。彼とは丁度10年振りの再会でした。実は、2003年、私がアルゼンチン(亜国)に「JICAシニアボランテイア」として赴任、一時帰国の時、研修センター長であった彼と面談、ソニーの中古パソコン25台を寄贈してもらったという経緯がありました。私が帰国時、入れ替わりに彼は福岡県九州大学教授に転職。10年振りの「御礼」の場となりました。参加者5名、さすが本場の中華料理は味が良く、量も適量、話も盛り上がりあっという間の2時間でした。

 
 ああ、「僕らのソニー」が死んで行く  週刊現代 2014/03/01

元副会長、ウオークマンの生みの親ほかかっての幹部が実名告白という衝撃的な記事が掲載されました。スキャンした記事をネットワークのソニーOBに転送した結果、下記に沢山のコメントが戻ってきました。興味深いので記載しました。
 
ご無沙汰しております。貴重なる情報、ありがとうございます。テレビもネー。新聞もネー。・・・。と言う僻地(?)。チベット(?)の様な所に住んでるので、情報はありがたい (バンコクから北東へ約二時間半)。最近営業に来た方から「ソニーのVAIO部門が、売られました」と。聞いて耳を疑ったのですが、テレビ部門の分社も含め、この記事にて認識した次第。癌に蝕まれた身体の如く、少しずつ細胞がなくなっていくのでしょうか。もうソニーは、無いと思ってます。部品メーカーのオヤジさん達からは、ソニーマンの人心が荒んでる話を聞きます。「この新しい部品。パナさんで採用した?」と聞くようです。もうソニーが先頭を切って、新しい事へチャレンジしなくなり、ヨソさんが採用したらソニーも採用と。ソニースピリットは、もうないのです。私の付き合う現役は(50歳前後)、もう完全にやる気なし(役職定年。体の良いリストラ)。
ただ、抜け殻となったような、ソニーと言う化け物(?)だけが存在。祇園精舎・・・。でしょうか。GEなど生まれ変わった企業もあるが、華々しく生きた企業程、生まれ変わりはなく、無くなっていくのでしょう。アップル・マイクロソフトなども、そのような運命へ。VAIO売却に関するニュースは、もうNHKでは取り上げない(?)。(昔ならソニーの話題は、必ず流れた) 今回の雑誌の記事も、これが最終回でしょうか。ソニーを取り上げても、拡販にはなりませんよ。と言う事で、私共を育ててくれたソニーは、無い。と思わないと、納得出来ない。シコシコと貯めたお金を、外人部隊が持って行ってしまった。 腹が立ってしょうがないですから。ソニーのカメラ部門へ、アルミのアルマイト部品を供給してる、 中小で働いてるのですが・・・。 (14/2/22 TM) 
◆一昨日Familyが届きました。 丁度あれこれ言われている所なので薄っぺらな質感・量感の無さに貧すれば鈍するを感じました。現代記事ももう5-6年前?もっと前から騒がれていた内容のぶり返しで何の新鮮味もありません。 気になるのは年金だけです。 (14/2/19 NK)
◆お送りいただいた記事は読んでおりませんでしたがまったく同感の感想を持っております。先日も、似たような内容のメールをATT:平井社長、CC:中鉢氏(OB会会長)に送りましたが返信ないとこを見ると、迷惑と思っているのかもしれません。 井深さん、盛田さん、岩間さん、大賀さんでSONYの良き時代は終わったようです。悲しい限りですが、アメリカ式資本主義の生贄のようです。 OBとして株主としてこのまま看過するわけには いかないので、どうしたものかと思案しております。(同 KK)
◆いつも情報有難うございます。もう取り返しが出来ない領域に入ってしまった気がします。 少しは応援をする気持ちがありましたが元気が出ません。(同 HS)
◆情報ありがとうございます。 断末魔の様相ですね。OBとしては、JALの様に企業年金が目減りしないことを祈るばかりです。 「週刊現代」の記事の内容は5年前の「週刊ダイヤモンド」で読んだのと大差ありません。その時、マスメディアの人に訊きました。 ソニーの崩落を記事にする理由は、「未だ、ソニーのことを記事にすると読者が居る、買ってくれるから」ということでした。 記事に書いてくれている間は未だニュース性があるからでしょう。もうとっくに賞味期限を越えていると僕は思いますが、どうでしょうか? 任天堂の転落が話題にならないように。(同 MS)
◆記事送っていただき有難うございます。 読めば読むほど「まったく情けない」の言葉しかありません。(同 AU)
◆相変わらずお元気でご活躍のご様子何よりです。 添付記事有難うございました。 この様な話題は今年2度目、1度目はあるOB会でもうソニーは死ぬ、問題はいつ死ぬかと言う所まで来ている。という内容でした。その様なことは酒の肴にして頂きソニーは復活して欲しいものです。 (同 KK)
◆有難う御座います。残念ながら指摘されていることは正しい気がします。情けない限りです。(同KN)
◆情報ありがとうございます。 OBとして悲しい限りですが残念ですね。 個人的には良い時代を送らせてもらったことに感謝ですね。(同 TY)
◆週刊現代の記事の転送ありがとうございます。 ソニーの苦悩を描ぎ、ここ十年ちかく議論されてきた結論(ソニーはどこへ行くべきか。)が出ていないことを指摘しています。 唯、今のリストラをやらずにどう利益体質をつくっていくのか? この答えがないまま、現状維持の継続はさらにソニーの衰退を加速させるだけでしょう。 テレビやパソコンはとっくの昔にコモディティになっていて、利益の創出は難しい。 テレビを何十年前に止めたアメリカ企業、数年前にパソコンを止めたIBMなど 経営の舵を切った企業の中には再生して成功しているところがあります。 問題はソニーが何を新経営基軸に据えるか、がよく見えてないところです。 我々がソニーに別れを告げないですむように、それを見付けて再生ソニーの 軌道に乗ってもらたいものです。ソニーの過去の経営批判は間違ってはいませんが、もうそれを言っても何の得にもならないでしょう。ただ、ロボットの中止などはよく反省してもらい たいですね。一つの新路に医療業界進出などがある訳ですから、医療ロボットなどの分野に入れる機会につながったかもしれない。勝手なコメントと御礼まで。 多謝 (同 TH)
◆居酒屋で酒を飲むと必ず、なぜ大学に残り学者の道を歩まず、ソニーに入社した理由を説明を求められましたが、ここ2~3年間はソニーの話などされなくなり、酒の悪酔いしなくて、のんびり酒を楽しみ、ゴルフや母校の仙台に学会の支部会の設立計画などの話題でしたが、これからは肥後さんの言葉「ソニーに別れを告げる日・・・・・・・信じたくないものです」が酒飲み院生時代の仲間から言われないことを願っております。 (同 NT)
◆週間現代の記事、有り難う御座いました。ソニーの凋落はOBとして真に残念至極であります。この中に書かれていることにほぼ同感であります。言い換えると、 ・闇雲にアメリカ型経営手法を導入し、その悪いところばかり取り入れた。 ・ソニーは本来製造会社であるのに、その製造を自ら放棄してしまった。 ・人材と技術を育てようとしなかった。要するにソニーの強みや良いところをアメリカ型経営の名の下に全て放棄されてしまったのです。リストラを繰り返した結果、人材がいなくなり再建は困難になりますね。製造会社にとっては人材と技術が最も重要な財産であります。会社はマネーゲームの賭場ではありません。記事の中で、TV部門を分社化すればもっと弱体化するのではないかとありますが、TV部門に人材と以前のカルテャーが残っているのであれば分社化して要らぬ干渉を受けず自由に思う存分頑張る方がよいと思います。もとはソニーも小さかったのです。 私の社員番号ですら4000番にもなりません。幸いなことに、半導体部門は逸早くソニー操業時の精神に立ち返り、地道に人材と技術の育成に力をいれ、撮像素子ではいつも先頭を走り続け他社の追従を許さずカメラやムービーやスマホなどのビジネスを支える土台として頑張って呉れていることは不調のソニーにあって、何よりも嬉しいことです。このカルチャーがソニー中に広がって行くことを期待しております。過去の反省に立って、再建に邁進してもらいたいと思います。我々OBも欠点を列挙するだけで満足するのではなくもっと前向きに、立ち 直ってくれることを心から応援すべきだと思います。(同 YU)
◆ありがとうございます。さびしいですが現実ですので残念ですね。 肥後さんはますますお元気そうでなによりです。(同TT)
◆内容的には非常にショッキングですね。誰もが感じていた出井ーストリンガー体制を元幹部が今頃批判している事には残念です。在籍中に何とかならなかったのでしょうか。 今になっては電機の枠にこだわらずにソニーの回復を祈るばかりです。 (同 HN)
◆「僕らがソニーに別れを告げる日」を送っていただいてありがとうございました。元幹部の言っていいることはもっともと思います。今の世の中を驚かせるような新製品が出なくなった体質をどうしたら変えていく事が出来るのでしょうか。じり貧に追い込まれるとますます将来性の不明な段階で立派な新製品の開発が困難になるだろうというのは分かります。ただこの困難をどうかして乗り越えて欲しいとしかOBの一人としては言えません。私は東通工のトランジスタラジオ開発の歴史を書き直しています。まだ先になりますが、参考にしてもらえるなら幸いです。 (同 YK)
◆ありがとうございます。でもこれが現実です。(2/18 TI)
◆手に入れて読もうと思っていました。ありがとうございます。我々の時代のソニーと今のソニーは、別会社です。 トリニトロンを売り、ウオークマンを売りまくっていた、小生は、ラッキーでした。 早くやめて、よかったと思っています。
(同 YK)
私もソニーを離れてもうすぐ8年になり、会社から送られて来る「Family」などを見ても全く見知らぬ人ばかりです。 もはや「ソニーは遠くなりにけり」という感じですが、現役時代にお付き合いのあった方達とは「SONY」の4文字が縁で 未だに仲良くさせて頂いており、これが大きな財産となっております。「世の中に余ってるものばかり作る」とか「お客より株主の方ばかり見る」等、言いたいことは山ほどありますが「SONY」の使命も終わったと言えばそんなところなのでしょうか。「SONY」で幸せな時代に働き、良い友人を得たことに感謝しなければいけませんね。 (同 AO)
 

 
 ソニー・OB会(開発途上国を愛する会)の集い開催
2014年2月6日(木) 16時 恵比寿 「魚匠(うおしょう)」

当会への参加は実に10年ぶりでした。ソニーの元研究所長・島茂氏を発起人に創立されたOB会です。昔は東京・洗足池の島邸に行った記憶があります。主に、開発途上国で活躍した元テレビ事業部出身のメンバーが中心です。私はキットビジネスを通じて、入会させてもらいました。その後、森尾元副会長も時々顔出すこともありましたが、今回、珍しく参加されました。全員で11名の参加でした。森尾氏は年齢的にはほぼ同じですが、よく飲み、食べ、喋る典型的な元気老人。彼の話は、現役時代の雲の上、井深さん、盛田さんなどの我々が知らない話が聞けて楽しいです。現在、沖電気工業の社外取締役をされておられます。(写真:左、AI氏、中:森尾稔、右:筆者)
   ソニー・キットOB会(川上グループ)の集い開催
2013年11月26日(火) 18時 銀座 「かんだ」

開発途上国でキット(ノックダウン)ビジネスに従事したメンバー8名はソニーを退職して15年経っても毎年1~2回集合、旧交を温めています。今回 、メンバーのひとり、YK氏の馴染みの和風居酒屋(有楽町駅より徒歩1分、交通会館の隣)という交通便のいいところで開催されました。3か月前からの呼びかけで久々に全員参加。ここでしか飲めないおいしい日本酒、チリ産赤かワインで「アンコウ鍋」を満喫。当店は銀座の地元誌に今年は、二度も取り上げられ、また、学習院のOBのたまり場で、徳川本家18代も顏を出されるそうです。美人女将の笑顔に誘われ皆、杯を重ね夜遅くまで盛り上がありました。(写真:KK氏提供)
       
児玉武敏 元ソニー専務取締役の回顧録 (2000年前後に書かれたメモより。2010年3月編集)

≪回顧メモの主眼≫
これまでソニーに関する刊行物は多数出版され、創業初期から立上げ期の史実や推移もよく知られているが、“実際に創業初期の販売部門の立ち上げに、現場ではどう対応したのか? 工場における生産現場のマネジメントはどう対応したのか?”料理で言えば肝心な調味料や隠し味的な部分の記述が今ひとつ忘れられているように感じている。
ここでは見方を変え、揺籃期の販売・生産・サービスの立上げ・展開時代に、組織の現場が直面した、言わば底辺の草の根レベルで起った様々な出来事とその解決までの動きを振返り、“新しい時代に向かう人たちの「温故知新」の糧として役立つように”という願いを込めて、回顧メモとして記述してみたい。全文を読む

 テープ式磁気録音 ~テープコーダーとは何か?~
昭和34年(1959) ソニー株式会社 盛田 昭夫
まえがき

 この小冊子はおよそ電気や機械の技術とは縁が遠く、ましてや自分で「録音」するなどということは考えてもみられなかった方々、さらに今後学校の視聴教育や事務の能率向上に、これを使いたいとお考えの方々にテープコーダーとはこういうもんだと、知っていただくため記述したものです。
 したがって録音について難解な理論は一切はぶき専ら平易に要点を解説することにつとめました。
 本冊子は昭和25年夏発行いたしましたところ意外の好評をいただき、同年秋第2版を送り、最近の改良された機構なども十分に取り入れかた記述をもって第2版まで改版してまいりました。
 今回さらに最近の事情を取り入れ加筆して、ここに第12版を皆様にお送りできますことは著者の望外の喜びと存じます。なにとぞ本書によってテープコーダーとか磁気録音について一層正確な知識と一層深いご理解とをお持ちくださるように願ってやみません。
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 ソニー設立趣意書・ソニー出発の原点 (出所:ソニーHPより)
1946年(昭和21年)1月、ソニーの創業者のひとり、井深 大(いぶか まさる:ファウンダー・最高相談役)が起草した。「東京通信工業株式会社設立趣意書」

※東京通信工業株式会社は、1958年(昭和33年)に社名を現在のソニー株式会社に変更した
  • 東京通信工業株式会社設立趣意書

1946年(昭和21年)1月、ソニーの創業者のひとり、井深 大(いぶか まさる:ファウンダー・最高相談役)が起草した。「東京通信工業株式会社設立趣意書」※東京通信工業株式会社は、1958年(昭和33年)に社名を現在のソニー株式会社に変更した。
真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設

東京通信工業株式会社設立趣意書 - 井深 大


 戦時中、私が在任していた日本測定器株式会社において、私と共に新兵器の試作、製作に文字通り寝食を忘れて努力した技術者数名を中心に、真面目な実践力に富んでいる約20名の人たちが、終戦により日本測定器が解散すると同時に集まって、東京通信研究所という名称で、通信機器の研究・製作を開始した。これは、技術者たちが技術することに深い喜びを感じ、その社会的使命を自覚して思いきり働ける安定した職場をこしらえるのが第一の目的であった。戦時中、すべての悪条件のもとに、これらの人たちが孜々(しし)として使命達成に努め、大いなる意義と興味を有する技術的主題に対して、驚くべき情熱と能力を発揮することを実地に経験し、また何がこれらの真剣なる気持を鈍らすものであるかということをつまびらかに知ることができた。

 それで、これらの人たちが真に人格的に結合し、堅き協同精神をもって、思う存分、技術・能力を発揮できるような状態に置くことができたら、たとえその人員はわずかで、その施設は乏しくとも、その運営はいかに楽しきものであり、その成果はいかに大であるかを考え、この理想を実現できる構想を種々心の中に描いてきた。ところが、はからざる終戦は、この夢の実現を促進してくれた。誰誘うともなく志を同じくする者が自然に集まり、新しき日本の発足と軌を同じくしてわれわれは発足した。発足に対する心構えを、今さら喋々(ちょうちょう)する必要もなく、長い間皆の間に自然に培われていた共通の意志に基づいて全く自然に滑り出したのである。

 最初は、日本測定器から譲渡してもらったわずかな試験器と、材料部品と、小遣い程度のわずかな資金をもって、できるだけ小さな形態で何とか切り抜けていく計画を立てた。各人は、その規模がいかに小さくとも、その人的結合の緊密さと確固たる技術をもって行えば、いかなる荒波をも押し切れる自信と大きな希望を持って出発した。斯様(かよう)な小さな規模で出発した所以(ゆえん)は、この国家的大転換期における社会情勢の見透しができず、また、われわれの仕事が社会に理解され利用価値を見出されるまでには、相当の期間を要すると考えたからである。しかるに、実際に動き出してみると、われわれの持つような技術精神や経営方針が、いかに現下の日本にとって緊急欠くべからざる存在であったかを、各方面からの需要の声を通じて、はっきり自覚せしめられたのであった。
 それはまず、逓信院、運輸省等の通信に関係ある官庁の活溌な動きに見出された。すなわち、全波受信機の一般への許可、民間放送局の自由化、テレヴィジョン(テレビジョン)試験放送、あるいは戦災通信網の急速なる復興意図とその綿密膨大なる諸計画の発表等、他の低迷困惑せる諸官庁の中にあって、一人水際立った指導性を示し、一般業者側が逆に牽引されたかの感を呈したのであった。斯(かか)る動きは、特に過去において逓信院と関係の深かったわれわれに対し、直接の影響を及ぼし、早くも真空管電圧計等の多量註文を見る結果となった。

 その他、短時日の間に、この方面より提案された新製品の研究、試作依頼の種目は相当量にのぼる状態である。また、間接的面から言えば、全波受信機の一般許可による影響は終戦後の「ラヂオ(ラジオ)プログラム」に対する新しい興味と共に、ラヂオセットそのものに対する一般の関心を急激に喚起し、戦災によるラヂオセット、電気蓄音機類の大量焼損も相まって、わが社のラヂオサービス部に対する需要を日を追って増加せしめたのである。その他、諸大学、研究所の学究、同じ志を有する良心的企業家等と、特に深い相互扶助的連係を持つわれわれは、この方面よりの優秀部品類に対する多種多彩な要求に当面しつつあるのである。

 以上のごとき各方面よりの需要の増大は、われわれ新しい決意を促したのである。すなわち資本と設備を拡充することの必要と意義を痛感したのである。われわれの心からなる試みが、かくも社会の広範な層に反響を呼び起し、発足より旬日(じゅんじつ)を経ずして新会社設立の気運に向ったことに対し、われわれは言い知れぬ感動を覚える。それは単にわが社の前に赫々(かっかく)たる発展飛躍を約束するばかりでなく、われわれの真摯なる理想が、再建日本の企業のあり方と、図らずも一致したことに対する大なる喜びからである。(以下略)

 大曾根語録 (提供:TI氏・OB)

ソニーDNA ~ソニーカルチャーの源泉とノウハウを明らかにする~

~ソニー大ヒット法則~
新しいアイディアは内緒で作る(まず作ってみる)

信念があれば上司に逆らってでも突き通す
都合の良いことだけを報告する(方便を使う)
説得は資料ではなく試作品でする
欲しい人間は社内外から自由に引っ張る
ターゲットは明解にする
パラレルに事を進める
トップの意見は丸呑みしない。 参考意見として聞いておく

はじめに

 ある日、大曽根さんと懇談会を持つ機会があった。その内容をまとめて一部の人に配ったら受けた。その後商品力強化プロジェクトがスタートし委員長である大曽根さんが出席される会議のほとんどに同席できたので、これもまとめて一部の人に配ったらまた受けた。  その内MD室の田村室長からこの調子でソニーのスーパースターに会って同じ様にまとめてみたらどうか、という指示があった。  斯くして2ヶ月に1人くらいのペースでインタビューをすることを続け、94年5月現在、8人の方々とお話をさせていただいた。人選は全く他意はなく40周年記念の時に配られた「源流」の役員名簿を眺めながら感覚で決めさせていただいたのだが結果的にビデオの木原さん、インストの森園さん、白倉さん、オーディオの中島さん、半導体の菊池さん、経理の坂井さん、そしてGAの大曽根さんとバランスが取れた取材になったのではないかと思っている。トリニトロンの吉田さんにもお会いしたが充分な時間がなく今回はまとめることはできなかった。次の機会には絶対編集したい (1993/03/31)

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